松山市北条辻の鹿島にて(その2)
鹿島港に着くと港の周囲に集まった数人が対岸を見つめている。
複数の消防車のサイレンの音も聞こえてきた。
海を隔てた向こうの山を見るともうもうと煙が上がっている。
屋根の鹿も火事見物しているように見える
とは言うものの、文字通り対岸の火事ということで
【案内看板より】
鹿島神社ご案内
KASHIMA SHRINE INFORMATION
鹿島神社
KASHIMA SHRINE
当社は武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主命(ふつぬしのかみ)をお祀りした神社で、神功皇后が三韓征伐の途中、風早の浦、鹿島にとめて、戦勝と道中の安全を祈願して出陣したと伝えられている。その後、事代主神(事代主)をあわせて祀った。
例祭日は四月十五日と十月十二日の二回あり、海上神輿渡御(しんよとぎょ)には往時を偲ぶ勇壮な櫂練り船が登場する。
櫂練り
KAINERI
櫂練りは治承年間(一一七七~一一八〇)河野水軍が、出陣に際し鹿島の神前に集まって、戦勝の祈願、或いは凱旋の時の祝勝行事を行なった。
このことが鹿島神社の神事となったと伝えられる。
往時、河野水軍の出陣再現にも似て囃しの鐘や太鼓の響きも勇ましく、櫂練り船を先頭に伝馬船に乗り移った二隻の神輿(じんよ)が続き、お供船が大漁旗笹幡をなびかせて続く。
櫂練り船の設備・装置・奉仕者の扮装、舸子(かこ)の漕法、樽上で剣櫂を操り舞う動作、ホーランエーの掛け声など絢爛たる海上絵巻がくりひろげられる。
鹿の形の俳句ポスト
島内のいたる所にある句碑
キャンプ場に併設された炊事棟
14組が同時に調理可能だが、満員状態で肩寄せあっての食事支度はなるべくなら遠慮したい
これという目的があって島に渡ったわけではないが
とりあえず島の周囲を
ぶらぶら歩いてみることにする
野村町小松地区へ(その3)
校庭跡には両脇に桜の木を従えるようにして背の高いコンクリート柱が立っている
設置されているのはKDDIの西予野村小松北局
何かと話題のHUAWEI製ではなくERICSSON社製
校庭の周囲に植えられた桜は今が最盛期
見るものとてない校庭跡に咲き誇っている
惣川小学校沿革史抄より抜粋
昭和16年4月1日
国民学校令施行にともない、惣川国民学校と改称し、惣川第二小学校は、舟戸国民学校と改称する。
昭和18年4月1日
上浮穴郡浮穴村大字小屋は、浮穴村より分離し惣川村に編入する。同時に浮穴国民学校小松分教場は、惣川村立小松国民学校として独立する。
昭和21年1月1日
小松分教場は、惣川村立小松国民学校として独立する。
昭和22年4月1日
学校教育法施行にともない、惣川村立惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校と改称する。
昭和30年2月11日
町村合併促進法に基づき、野村町と合併し、野村町立惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校と改称する。
昭和43年4月1日
惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校の3校を名目統合し、新たに惣川小学校とする。
昭和44年3月31日
惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校の3校統合のため、3校舎廃校とする。校章・校歌・校旗・通学服を制定する。
昭和44年4月1日
統合校舎が新築落成し、新校舎において入学式を挙行する。
昭和47年3月31日
小中学校体育館が落成する。
巴 松五郎氏の胸像除幕式をする。
巴松五郎翁頌徳碑の頭上にも満開の桜
頌徳碑と小松分館の建物
そろそろ帰ります
野村町小松地区へ(その2)
ほぼ8年ぶりに訪れた集落跡
強風が吹き付けたことによるものか、朽ちた窓枠が室内側に崩れ落ちている。
戸締まり出来なくなった建物の崩壊は早い
軒が崩れ落ちるのも時間の問題か
トタン葺き屋根は錆びによる虫食いが進行
大きく開いた戸口の隙間からトタン屋根の建物の内部に入り頭上を見上げる
壁がこちら側に倒れてこないようにするためか、電柱くらいの太さの丸太でつっかい棒されている
前回来訪時にはなかった道が家屋の裏手に向け続いている
コンクリートで固められた遊歩道を歩いて窓が崩れ落ちた建物の裏手に回ってみる。石積みの上に建つ堂々たる土壁の建物は昭和の初め頃は旅館で、隣のトタン葺きは荷運びや客を運ぶために飼われていた馬の厩だった
トタン屋根の建物の壁には去年の案内が貼られたままだが、調べてみると今年の大祭も同月同日なので、曜日無関係で毎年同じなのかも
表の道に戻って三叉路にあるバス停まで歩いてみる
庇のある建物にかかったままの表札
窓枠ごと崩落して内部が丸見えの家
どんな状況でこの家を出ていったのか。
いかなる者にも最期の日はやって来る
壁材の合板が次々に剥離してすだれ状態に
雨樋に溜まった泥には瑞々しい雑草が
「そば焼酎雲海」の行灯看板
三叉路に着いた。
道路標識の右横にバス停の看板が立っている
西予市生活交通バス バスのりば 色納(いろの)
※バスに乗るには予約が必要です。
(午前の便:前日まで 午後の便:2時間前まで)
三叉路側から数えて一番端の家には布団と毛布が干されている。
この家とすぐ隣の家は今日現在でも居住されていてなぜか安心する。
裏手から舟戸川の穏やかな流れが聞こえる
付近に咲く花々①
付近に咲く花々②
付近に咲く花々③
三叉路に一本だけ立つ堂々たる桜は今が満開だ
日暮れが近くなってきたので、ちょっとだけ小松分館に寄って帰ることにする
株式会社平凡社
日本歴史地名大系第三九巻
愛媛県の地名
1980年11月15日 初版第一刷より抜粋
小屋村 (現)野村町小屋
現野村町の東北端にあたり、東西に長く延びた山村。
東は浮穴(うけな)郡(現上浮穴郡)、北は同郡・喜多郡・南は土佐国に囲まれる。四国山地の西部を形成し、村域は標高500メートルから1400メートルに及び、東部の大野ヶ原から発する舟戸川は西に向かって屈曲しつつ流下し、惣川村を経て横林(よこばやし)村で肱川に合する。江戸時代を通じ大洲藩領で、大洲藩領南端の村。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)の浮穴郡の項に「小屋村 雑木山少有、茅山有」と記し、石高二〇八石一斗一升、うち田方七九石九斗二升二合、畠方一二八石一斗八升八合とある。
小屋では旧暦七月に「こおどり」が行われる。念仏の間に鉦・太鼓・手拍子を打ち、扇子を振って歌いながら踊る。この踊は関東の鎌倉から来た人に習ったといい、そのなかの伏見踊は江戸初期の「女歌舞伎歌」に載っている。
村域は昭和18年(1943)上浮穴郡浮穴村より野村町に編入された。
丸山公園シャクナゲ園にて
桜に対するほどには興味も興奮もないが
花見ついでに丸山公園のシャクナゲ見物に
【案内看板より】
北半球の広い範囲に分布するツツジ属の低木です。葉は常緑で、花は枝先にくす玉状に集まって咲きます。日本に自生する種やその種から作られた園芸品種が日本シャクナゲで野生種は深山の岩場に生えており、成長が遅く栽培が困難なものが多い。西洋シャクナゲは主にヒマラヤや中国産の原種を元に欧米で作られた園芸品種で花の色が様々です。
【碑文より】
龍雲山遍照院新四国五十四番
不動明王の下に爪髪供養塔を建立
不動明王の守護を仰ぎ死後はこの
地に来りて丸山公園大駄馬団地を
眺めつゝ永代木として保存の周囲の
森林を見守りつゝ冨永家宗家並に
子孫一同の繁栄を祈る
昭和六十二年八月吉日
建立者 冨永廣 九十一才
冨永タマオ 八十六才
園浄院 園城院 爪髪供養塔
供養塔のある場所から500mほど下ると広い駐車場と
シャクナゲが大書された公衆トイレがある
トイレ前の八重桜の下に駐車
シャクナゲ谷に向かって歩いていく
シャクナゲには悪いが
ほんの数10m登っただけで
飽きてきた
【案内看板より】
ヤマブキ
多数のアーチ状に伸びる枝に花が列生し、株全体が黄色く染まるので、遠目にその部分だけが一際明るく目に入ります。枝がそよ風に揺れる様は春の風物詩といってもよいでしょう。和名は風が吹くと山が動いているように見えることからついたと言われています。花が八重咲きになるヤエヤマブキは「山吹の故事」で有名な園芸品種です。
早々に駐車場に向け引き返す
駐車場から花盛りの川辺川方向を見下ろす。
高級和菓子を思わせる春の色合いをしばしの間眺めてから出発