土佐街道その2
県道5号線をぐんぐん登っていくと笹ヶ峰トンネルに到着。照明がまったくないので内部はかなり暗い。
トンネルを越えると道端のそこここに立川御殿保存会と古代官道調査保存協議会諸氏の手になる案内看板が見える。
川に沿ってしばらく走ったあと、案内看板に従って左折すると旧立川番所書院の駐車場に到着。先客は無し。
先週に続き、茅葺き屋根の家屋を見物する。
付近には坂本龍馬と水戸浪士との会見の地跡がある。
立川の歴史
古代律令制度のもとで和銅四年(711年)頃の南海道は紀伊〜淡路〜阿波〜讃岐〜伊豫〜幡多〜長岡の國府に至る遠廻りの行程が想定されている。
奈良時代の続日本紀(しょくにほんぎ)に養老二年(718)「…その道は伊豫國を経る。行程は迂遠にして山谷険難なり。」とあって國府からの奏請をうけこの年阿波の國から土佐に通ずる道をえらび路程を短縮したとあるが宿駅はあきらかにされていない。
降って平安時代の「日本後紀」に延暦十六年(797)「甲寅(きのえとら)。廢ニ阿波國 驛家□、伊豫國十一、土左國十二、新置土左國吾椅(あがはし)舟川ニ驛。」とあってそれまで敬遠されていた四國山脈の横断が始めて試みられている。
吾椅は今の本山であり舟川は立川である。伊豫の川之江から入るこの道の開設で都から土佐への距離は大巾に短縮され驛の設置によってこの地方は文化の流入経路となったのである。
延喜式兵部省の条に「土佐国驛馬 馬 頭驛、治川、吾椅、丹 各五匹」とあり、又、「土佐國 行程丗五日。下十八日。海路廿五日」とも出ている。
このように立川は延暦十六年(797)には都と國府を結ぶ官道の駅家が置かれ古い歴史を持つ地である。