徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kが徘徊中

太地町その2

整備工事中の看板。期間は来年3月9日までとなっている

建て替え工事による立入禁止区画に露天展示されているクロー

【地面に直置きされていた説明看板より】
クロー(重さ3トン)
この大きなクローで、鯨の尾羽のつけ根を挟み母船々尾の鯨引揚げ斜路から解体甲板まで引揚げる時に使うものです。
洋上でのこの作業には大変な技術を要し、甲板長合図のもとに熟練した甲板員の操作するウインチ(揚鯨機)3台によって4人が一体となって当たります。このクロー掛けは仲々の難業だといわれています。

小松正之著 「日本の鯨食文化」より抜粋

クジラ文化一色の町「太地」
和歌山県には、イルカ漁で世界的に有名となった太地町の他にも、串本や古座、紀伊大島など捕鯨で盛んな地域がいくつもあった。藩営捕鯨がおこなわれた地である。
紀州徳川家の初代、徳川頼宣は、専門の捕鯨集団である「鯨方」を設置し、国防を第一目的、経営的活動を第二目的として、藩をあげて捕鯨活動に取り組むこととなった。捕鯨活動は操船技術に始まってさまざまな海上訓練に役立ち、その監視の役割が大きかった。
当時はスペインやポルトガルなどの異国船の往来も多かったからである。同時に、捕獲したクジラは高値で取引されることから、一挙両得を狙って紀州徳川家の事業として行なわれることとなったのである。
前述の「大背美流れ」事件によって、太地で300年近くもの歴史と伝統を誇った鯨組は壊滅した。では、事件後の太地の人々はクジラと関わるのを止めてしまったのだろうか。答えは否である。捕鯨を継承することが地域文化だと誇りを持って生きる人たちは、途中で投げ出したりしない。それが自分の人生そのものだとの気概があったから、万難を排して再び立ち上がった。それは千葉の南房総のように現在でも捕鯨活動に地域をあげて取り組んでいくところに共通する考え方である。
故郷で捕鯨ができなくなっても、全国各地あるいは広く世界へと羽ばたき、捕鯨活動を続けていった。中でも、竹村京次と前田兼蔵は渡米し、アメリカ式捕鯨銃を改良し、独自の対ゴンドウクジラ用捕鯨銃を開発する。竹村は開発中に不慮の事故で世を去るが、前田は、ロープのついた銛を発射可能な「前田式連発ゴンドウ銃」を開発して特許を取得し、太地町近海の捕鯨復興に大きな貢献をした。
その後の太地の人々も、ある人は砲手として、またある人は加工職人として、形は変わっても捕鯨活動に関わりつづけた。そしてこの貴重な経験が戦前前後の南氷洋捕鯨に貢献することになる。自分たちの捕鯨経験を活かして南氷洋捕鯨を支え、敗戦直後の焼け野原の人々に鯨肉を届けたのである。
現在でも、太地町では捕鯨活動が行なわれている。
IWCが管理対象外としている小型鯨類のゴンドウクジラなどを対象に捕鯨を続け、イルカについても伝統的な「追い込み漁」を続けている。2005年からは、県内中学校111校の給食に鯨肉を提供した。 後略
IWCはInternational Whaling Commission(国際捕鯨委員会)

クジラ捕り漁師の立像

日本の鯨食文化――世界に誇るべき“究極の創意工夫”(祥伝社新書233)

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