徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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八ツ石城址

徳島県三好市井川町の国道192号線から井川スキー場方面に県道140号線を進行。
「八ツ石城址⇒」の案内看板に従って途中を右折し、毎度おなじみの荒れた舗装の狭路をくねくねと登って行くと立派なトイレの建物が見えてくる。

トイレの向かいに位置する鳥居と案内看板

雑草が繁茂するやや急な山道を登っていく

「八ッ石城」の名称の由来となったとおぼしき巨石の横を抜けて進む

【案内看板より】

三好市指定文化財(史跡)
八ッ石城跡 昭和60年10月8日指定

南北朝時代の山城の跡で、擂鉢を伏せた形をし、東側で四段、北側で三段の空堀と二条の縦堀が確認できる。城跡一帯に巨石が散在し、八ッ石の名の起源であると推測される。
この城跡には新田義治築城の伝説があり、天授元年(1375)の頃、東北の戦いに破れた義治は、父脇屋義助が四国・西国大将軍として派遣されていた伊予の国に来たが、既に病死していたことをしるとこの地方に潜入した。
新田の森に住居を構え、山嶽武士と呼応し、八ッ石城を築いたと言い伝えられている。
なお、この城址には、「椀貸し」など様々な伝説も残っている。

三好市教育委員会

丘の頂上にある石碑
左の石碑の裏側には
「御慶事記念 大正十三年三月 八石城保存會」の文字が読める。
周辺を木々に囲まれているので下の景色はほとんど見えない。

徳島新聞の記事より引用

楠木正成新田義貞の死によって南朝方の勢力は弱まっていた。

四国の南朝方に加勢するため興国元年(1340)四月三日、脇屋義助(義貞の弟)が四国の大将として伊予へ遣わされた。
義貞の子義宗、義助の子義治ならびに弟義広も出羽国から伊予川之江城へ入った。ところが、義助は伊予へ入ってわずか二十日足らずで亡くなってしまった。
これを知った北朝方の阿波守護細川頼春が阿波、讃岐、淡路の大軍を率いて池田の小笠原義盛を味方に引き入れ、川之江城を攻め滅ぼした。
伊予の山奥へ逃げた義宗は応永四年(1397)九月十五日、伊予宇摩郡下川邑(うまごおりしもかわむら)で没した。義宗は後に新田大明神として祀られた。

新田義治、義広らは阿波へ逃がれた。
義治は三好市井内谷(いのうちだに)の地福寺へ入り、祖谷の南朝方の助けを得ようとした。やがて祖谷の徳善治部、菅生大炊助(すげおいおおいのすけ)、西山民部、落合左衛門尉(おちあいさえもんのじょう)らと連絡がつき、自分は八石城を築いてここに籠った。そのうち菅生大炊助、西山民部が北朝に味方した。やがて八石城も落城し、義治はかろうじて身一つで阿波郡日開谷山(あわごおりひがいだにやま)へ逃がれた。
義治は日開谷山に潜んでいたが、やがてここも危なくなり貞光の山中へ逃げ込んだ。
応永二十六年(1419)七月十四日没。菖蒲野(しょうぶの)へ葬むられたが、後に新田大明神と言い伝えられるようになった。

さて、義治の弟、宮脇義広は義治と別れてから東みよし町東山までたどり着いた。
この頃、義治は八石城を築き小笠原頼清は田尾城に拠って南朝に尽くした。
しかし、義治は北朝方に攻められ東山葛籠(つづろ)まで落ちのび、ここで自害した。天授六年(1380)八月二十三日のことだった。

※椀貸しについて
冠婚葬祭などで多数の膳やお椀が必要になったとき、自家で持ち合わせぬ貧乏な農民等が塚、淵、池、洞穴等の前で頼むと貸してくれるという伝説。
破損させたお椀を不心得者がそのまま返却して以降、いくら頼んでも誰にも貸してくれなくなったという。

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