遍路宿「坂本屋」付近
愛媛県道207号線を山へ向かってどんどん上って行くと、正面の柱に打ち付けられた板の看板に「坂本屋」と墨書された老朽木造家屋が見えてきた。
「坂本屋運営委員会」なるボランティア団体と地元有志により築100年の木造家屋が改修され、日時限定でお遍路さんの接待が催されている。
【画像手前の案内看板より】
三坂峠遍路道トレッキングコース
久谷(くたに) 松山市
久谷地域には、遍路文化が色濃く残っています。四国霊場四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺をはじめ、遍路発祥の伝説が残る文殊院や八塚もあります。
へんろ道沿いには多くの道標や遍路墓、石仏、常夜灯なども残されています。
また、時宗(じしゅう)始祖の一遍上人が修行した窪野地区、中世城郭の遺構荏原城(えばらじょう)、新張(にぼり)城跡などもあります。
文化と歴史、自然あふれた、久谷地域を歩いてみましょう。
【坂本屋板壁の案内看板より】
三坂峠遍路道トレッキングコース
久谷(くたに) 松山市
久谷地域には、遍路文化が色濃く残っています。四国霊場四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺をはじめ、遍路発祥の伝説が残る文殊院や八塚もあります。
へんろ道沿いには多くの道標や遍路墓、石仏、常夜灯なども残されています。
また、時宗(じしゅう)始祖の一遍上人が修行した窪野地区、中世城郭の遺構荏原城(えばらじょう)、新張(にぼり)城跡などもあります。
文化と歴史、自然あふれた、久谷地域を歩いてみましょう。
旧遍路宿 坂本屋
明治末期から大正初期に建てられた遍路宿。
土佐街道の難所「三坂峠」の麓にあり、昭和初期まで休息・宿泊の場として賑を見せていたそうです。
平成十六年春、多くの方々の協力で修復されました。
囲炉裏やかまどもあり、閑かな風景にとけこんで癒しの空間を創りだしています。
昔、正岡子規はここを旅して、句を残しています。
「旅人のうた のぼりゆく 若葉かな」
この句の「うた」は御詠歌あるいは三坂馬子唄などだったのでは…。
制作
NPO法人 地域共創研究所 NORA
坂本屋運営委員会
坂本屋から道を挟んだ竹林前の駐車スペースに建つ御影石の石碑
【碑文より】
石濱典夫氏 略歴
昭和七年一月二十九日大阪市に生まれる
昭和二十九年大阪大学卒業後産経新聞に入社
司馬遼太郎氏に兄事する
関西テレビ取締役、テレビ愛媛社長を歴任
退任後『坂の上の雲』のまち松山の実現に貢献
「坂本屋」の復興など多彩に活動
平成二十年五月十三日松山にて永眠
碑文は自著『なにわの坊ちゃん』から引用
登り坂が急になり始めた頃から、道はアスファルト舗装からひび割れたコンクリート舗装に代わり、轍の苔が途切れた辺りからとうとう舗装が終わり落ち葉に覆われた山道が現れる。
左手に見える東屋を通り越した辺りから坂がきつくなり道幅は路地以下になってきた。少し先まで歩いてみたところオフロードバイクならそこそこ楽しめそうなコースに見える。
もう少し道幅があれば迷わず突入するところだが、万一この先に数段の石段でも現れ、Uターンすることを余儀なくされた場合には落ち葉に覆われた狭い山道で四苦八苦するのは確実なので更なる進行を自重する。
山道の路面が濡れてスタンドがめり込むので、苔むした東屋にバイクを駐め付近を散策する。
【案内看板より】
この休憩所には、かつて一ノ王子があったといわれています。
(王子とは熊野信仰に由来する三十三または九十九ヶ所の小さな社です。一から順番に参詣をしていきます)
中世から近世にかけて石鎚信仰に熊野信仰が結びつき、ここから石鎚山頂までの道に王子が続いていたといわれています。(現在は道は消滅、王子は所在不明です)
現在は石鎚登山道西条側にのみ三十三王子が残っています。
この場所が「坂本屋」前の地図で見た「一ノ王子社跡」らしい
「一ノ王子社跡」遠景
左手にある東屋は屋根部分が雑草でカモフラージュされている
この後、別のルートで国道33号の三坂峠登りルートに合流し紅葉具合を見るため久万高原町へ
この付近の今日の気温は日中でも一桁に迫る勢いだが、山々はまだ大半が緑に覆われている。高地とはいえ先週の竜ヶ岳に比べれば標高が低いのは明らかなようだ。
午後3時前に久万高原町の山中で遅めの昼食
あまりに寒すぎて箸を持つ手がかじかんでいた。
今年の野外調理はこれにて打ち止めにする