徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

横倉山の安徳天皇陵その3

息を切らしながら山道を10分ほど歩いていると道がやがて下りになり、杉の巨木の右手向こうに神社の境内が見えてきた。

 
拝殿を背に正面付近を眺める

拝殿右手の高い位置に造られた「平家の宮」

【案内看板より】
平家の宮
横倉山中および周辺には安徳天皇護衛の従臣八十余名の墓祠があり横倉宮の摂社末社として祭祀が行われてきたが戦後腐朽し不明になるものもあったので平家会や有志が相談し御霊を一つの宮で招霊することとし昭和五十七年(1982年)十月この社を新設したものである

文治三年八月安徳天皇に随勤し横倉山へ来られた平家一門八十八名中の氏名判明せる者(この社に合祀する)

平家の宮から下方向を見下ろす。右手に杉原神社拝殿が見える

【案内看板より】
平家の守護神熊野権現その他を祀り、杉の巨木の多いところから社名となった。社殿はしばしば改築され、現在のものは明治三十年ごろの改築で本殿周囲のえと(干支)並に脇障子の彫刻は、明治年間に全国的著名な長州の工匠門井宗吉の作といわれ極めて精巧である。

杉原神社本殿

[PDF]近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書ー愛媛県教育委員会
(P261に明治の左甚五郎と言われた長州大工、門井宗吉兄弟の画像及び関連記述あり)

上記資料P260より引用
長州大工について(歴史・由緒)
「長州大工」とは、江戸時代後期から明治、大正時代にかけて、各地に出稼ぎし神社・寺院などの建築普請にあたった大工職人の呼称で、自ら「長州大工」と名乗った。
彼らは伊予・愛媛、土佐・高知の村々でも多くの仕事をし勤勉で人柄もよかったことから、いくつもの社寺を手がけた者や、出稼ぎ先で妻帯または入婿してその地に定着する者も少なくなかった。
彼らの出身地である大島は周防国であったことから周辺の小島を含めて周防大島と呼ばれていた。国名からいえば「周防大工」あるいは「防州大工」というべきであるが、他国の人間には長州の名の方が知れ渡り、四国の山村に行ったとき「周防から来た」というより「長州から来た」といった方が、理解されやすかったため、「長州大工」と名乗ったのではないかと考えられる。
なぜ周防大島から四国へ出稼ぎに来たのか、それは江戸時代にさつまいもの栽培が盛んになり人口が増え、島の限られた土地では暮らしが成り立たず、大工や木挽き、樽屋、石工など技能を身につけて、出稼ぎせざるを得なかった。そしてまた、他国から職人を雇い入れたいと願う四国側の事情があった。特に山間地域の村々には専門職としての神社や寺院を建てる大工が少なく、建築普請の技術・技能をもった長州大工を受け入れていったのである。

技法・意匠上の特徴
建物の構造や意匠だけを見たとき、これぞ長州大工の作品、という特徴は見当たらない。それぞれの社寺の希望、予算、境内の広さなどの条件に合わせて建てられたと考えられる。そんな中、神社の拝殿に壁や建具を設けず柱のみとしている例が多く見受けられる。地方の神社で拝殿は、祭りや神事で礼拝するときのみに使うのではなく、普段の村の集会の場、あるいは子供の遊び場として幅広く使われていたことがうかがえる。
そしてなんといっても長州大工の一番の特徴は「彫刻」にあるといえる。通常彫刻が施される木鼻・蟇股だけではなく、手挟み・懸魚・兎毛通・笈形・尾垂木など過剰と思われるほど派手でリアルで精緻な彫刻で飾る。これらの彫刻は側面の板壁や脇障子などの平面部分にも及び、中国の仙人の逸話などを題材にしているものもある。

門井宗吉・友祐兄弟について
長州大工の中で愛媛県において最も活躍し、多くの作品を残しているのが門井宗吉、友祐の兄弟である。門井家は周防大島東部の西方という集落にあり、同じ地にあった今井家から分家した。初代は惣七、二代目が友助、三代目が浅次郎、四代目が宗吉と名乗り、そのうち友助、浅次郎、宗吉が宮大工となった。また、四代目宗吉の弟・友祐も宮大工で、彼は彫刻師としても数多くの仕事を残した。宮大工として三代、彫刻師を含めると四代社寺建築に携わった家は周防大島ではほとんどなく、長州大工の中でも門井家の仕事は質・量ともに抜きんでている。
彼らは愛媛県における近代社寺建築の芸術性を語る上でも、非常に重要な役割を持っている。特に弟の友祐は晩年まで愛媛県にとどまり、20件もの物件を手がけているのは、ただただ驚くばかりである。

本殿腰板に彫られた彫刻
右側面

背面

左側面