徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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大崎下島の御手洗地区その4

始動してはエンストし、放置を繰り返すことの多いこのところの当ブログではあるが、性懲りもなくまた再始動する。

大崎下島の御手洗地区を訪れてからもうひと月近くが過ぎてしまった。
来訪時不思議なほどに人がいない状態だったので帰宅後調べてみたら、周辺観光施設の定休日が火曜だったせいらしい。

看板と店構えが懐かしい新光時計店
真剣な眼差しで腕時計に向かっている店主がガラス越しに見える。

新光時計店から少し歩くと見えてくる「乙女座」
オリジナルの建造物ではなく平成14年に復元されたものだ

二階ベランダ手すりの意匠がモアイに似ている?らしい崩壊寸前の住宅跡

ブルーシートで側面を覆われている

【案内看板より】
七卿落遺跡

文久三年八月十八日、公武合体派のクーデターによって破れた倒幕派の公卿のうち、三条実美ら七卿が長州兵に守られて都落ちしたことは余りにも有名です。元治元年長州藩真木和泉守を先発として兵を京都に進めましたが蛤御門の変で敗れました。このとき三条実美三条西季知(にしすえとも)、四条隆謌(しじょうたかうた)、壬生基修(にぶもとなが)、東久世通禧(ひがしくせみちとみ)の五卿は京都における長州の勢力挽回と共に上京しようとして長州を出て多度津(香川県)まで登っていましたが、京都の敗北を知り長州に引き返しました。その途中、七月二十二日から二十四日にかけて、この竹中屋(庄屋)で旅の疲れをいやしたものです。
尚、この竹原屋には維新のころオランダ商船のテーレマン・パクという人が駐在して薩摩藩などと武器の密貿易もしていました。
又、文久三年から慶応元年に至るまで広島藩は軍艦購入のため、薩摩藩から金十万両を借り、その返済方法として、米、銅、鉄、操綿などを御手洗で薩摩藩に渡していました。(御手洗交易)
このように御手洗港が明治維新の陰の舞台となったことは歴史家の知るところであります。

昭和十五年二月二十七日
広島県史跡指定

【石碑に貼られたステンレス板の碑文より】

櫓音頭

 蛭子(恵美須)神社は、元文・寛保(一七三六〜一七四四)、豊前小倉から、御神体を移したと伝えられ、諸国廻船との商取引の中心であった。この広場に祀られて、商売繁盛、航海安全が永らく祈願された。社殿は、度々の改修を経て、明和四年(一七六四)の再建により、社殿の結構が整えられて、現在は、広島県重要文化財に指定されている。
 蛭子神社の大祭は、町中あげての一大年中行事として、櫓(壇尻)を先頭に、四軒の茶屋の遊女が総出演で、三味線、手踊りで後に続き、神輿が町中くまなく巡航された。近郷在住の見物客を集めて、町中は、賑やかさに湧きたったと記録されている。
 以来、二百数十年絶えることなく、若い衆のたゝく太鼓の音に合わせて、櫓音頭の声が響くと、町中の人々の心は、たまらなく勇むのである。
 碑の詩句は、民謡研究家の町田嘉章氏が、当地に滞在して、作詞されたものである。
 櫓音頭の音曲は、秋田の川下り船頭歌が源流で、北前船の船人により、港々に伝えられ、御手洗では、勇壮な櫓音頭として定着した。

  清き清水のョ菅公が井戸にョ
    姿うつした 梅の花
   トコーランプのェー 火屋ェー

地区の高台にある「歴史のみえる丘公園」に登ると、不思議に見慣れた形状の車止めが二つ

展望台まで歩いて登り、御手洗地区を見下ろす

テントの中で眠っていたのか、駐車場の東屋の下に張られた一人用テントと沖縄ナンバーのカブ以外に人の気配はなし

しばし眼下の景色を楽しむ

「千砂子波止」の大燈籠が見える

そろそろ帰りのフェリーの時間が気になってきた

御手洗地区滞在時間中のほぼすべてを貸切状態で満喫したのでこれにて帰路に就く

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