徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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吉備真備公園にて

10月15日の早朝4時40分に自宅を出発。
天気予報通り雨の気配は皆無だがこの時期としてはかなり肌寒い。
国道11号から国道317号で今治市の糸山公園を目指す。
来島大橋の料金所に到着したのが6時45分だった。

しまなみ海道経由で国道2号〜国道313号を経由。
岡山県小田郡矢掛町(やかげちょう)の国道486号沿いにある吉備真備公園に到着。
現在時刻は11時10分。
ここまで6時間ほどをほとんど休憩なしで走り続けたので、こわばった筋肉をほぐすつもりで柔軟体操しながら園内を散策。

【案内看板より】

吉備公ゆかりの地
 矢掛町重要文化財(史跡)

所在地    矢掛町東三成
指定年月日 昭和四十八年四月十一日指定
管理者    吉備保存会

 この吉備公ゆかりの地には屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、このあたりから奈良時代の瓦片が出土している。(平瓦・・平城宮六六六三型式、軒瓦・・平城宮六六二五型式など)そのためか、この辺りの字は瓦谷という。
 地元では吉備公館址と称され、下道(しもつみち)氏の館址と伝えられているが、ここに下道氏墓所を祀る寺院があったとする瓦谷廃寺跡説もある。
現在、吉備大臣宮として祭祀されている。また、この宮の西に阿藤大簡(現浅口市鴨方町出身)の「吉備公館址詩」を刻む石碑がある。
 毎年五月には吉備保光会による吉備公祭が行われている。
    矢掛町教育委員会

吉備真備を祀る吉備神社(吉備大臣宮)

いたいけな洋風少女による「手水のつかいかた」のレクチャー。

①まず左手を洗います。
②つぎに右手を洗います。
③おわりに左手に水をうけて口をすすぎます。

すすいだあとの水はやはりそのまま飲み込むのが正式作法なのだろうか

石製の立派な扁額

拝殿前では絵馬がセルフサービスで販売されている

消費増税によるものか色々と価格改定されている

右大臣 吉備真備公像

遠山美都男著 「天平の三姉妹ー聖武皇女の矜持と悲劇」より抜粋

押勝を追い詰める

 やがて、孝謙太上天皇は、武力に訴えてでも淳仁天皇を廃し、道鏡を中継ぎ天皇として他戸王(おさべのおおきみ)に皇位を受け継がせねばと考えるようになった。実は、武力によって皇位継承問題に決着をつけるという方法は、皮肉なことに、かつて彼女に武力で廃位を迫ろうとした、あの橘奈良麻呂から学んだものといえよう。
 武力を背景に淳仁天皇を廃位すれば、彼を擁立した恵美押勝(藤原仲麻呂)が黙っているはずがなかった。強大な軍事力を掌握する押勝を倒すには、それ相応の武力とそれを縦横無尽に動かす軍略を備えねばならない。
 軍略については、孝謙太上天皇はその皇太子時代からの師である吉備真備を全面的に仰ぐことにした。造東大寺司(ぞうとうだいじし)の長官として中央に復帰していた真備は、ひそかに御在所を訪れ、押勝を追い詰め、滅ぼす戦略をあれこれと教授してくれた。孝謙太上天皇は息を詰めて、この老人の口から吐き出される言葉を一言半句も聞き漏らすまいとした。
真備は、強敵である押勝を倒すためには、彼を油断させる必要があるとして、かねてより彼が望んでいた畿内とその一帯における兵士徴発権をあえてあたえることを献策した。これが実現したのが七六四(天平宝字八)年九月二日のことで、押勝孝謙太上天皇によって「都督(ととく)四畿内三関近江丹波播磨(さんげんおうみたんばはりま)等国兵事使」に任命された。
 これは、首都平城京のある大和国以下、山背・摂津・河内・伊勢・美濃・越前・近江・丹波・播磨の計十ヵ国において兵士を徴発する権限をもった最高軍政官である。このような強大な権限を押勝にあたえることは危険ではあったが、敵を徹底的に油断させるには、これぐらいの餌を撒いておく必要があるのですといって、老人は歯のない口を開けて笑った。
 孝謙太上天皇は武力を発動し、駅鈴と内印という天皇権力の発動に不可欠の二品を手に入れると称して、淳仁天皇のいる中宮院を軍勢により包囲した。そして、淳仁天皇の身柄を押さえ、事実上その廃位を断行したのである。 すでに二年前、天皇大権の行使を止められていた淳仁天皇は、これをもって完全に天皇ではなくなったのである。その直後、孝謙太上天皇は実質的に皇位に復帰(重祚ちょうそ)したと見なしてよかろう。
 押勝は完全に先手を取られた格好であるが、武力という点では圧倒的に優位にあったので、畿内周辺の国府を拠点に反撃に出ようとした。畿内周辺の国府には彼の息子たちが国司として赴任していたから、その力を結集して戦いを挑めば、かならず勝てると考えたのである。
たしかに、そのとおりであった。しかし、その点でも真備はすでに一手先を読み、孝謙太上天皇に周到な献策を忘れなかったのである。

御影石製の日時計

同じく御影石製の巨大な碁盤。
屋根部分が見えている建物は「館址亭」
この先の真備町にあるまきび公園内のまきび記念館同様の中国風な意匠の建物だ。
うどん等の軽食を販売しているようだが当日はまだ準備中だった

【案内看板より】

囲碁発祥之地記念碑について

奈良時代の偉人正二位右大臣吉備真備公は二度にわたって万里の波濤を超え遣唐使として唐の都長安渡航し国威の発揚に尽力され天平七年(七三五)帰国に際しては当時世界最高といわれた唐の最新の文化を数多く持って帰り、日本の政治、文化、軍制の発達に大きな功績を挙げました。
平安時代後期に書かれた江談抄には吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、これが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であるところから、吉備真備公が、日本における囲碁の開祖として伝えられ、その後の各種辞典、又著作に現れております。
その故に吉備真備公は日本における囲碁の開祖であり、その居館跡を囲碁発祥の地として、吉備真備公の遺徳を顕彰するためにここに記念碑を建立したものであります。

平成二年十一月吉日 吉備保光会

天平の三姉妹―聖武皇女の矜持と悲劇 (中公新書)

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