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蔀山城跡

庄原市高野町の国道432号腺沿いにある蔀山(しとみやま)城跡

【正面左手石碑の碑文より】

 蔀山おろすあらしのはげしくて
   もみぢのにしききぬ人もなし

後鳥羽上皇承久の乱により、遠く隠岐の島に御遷行の途次、この山麓を御通輦(ごつうれん)ありし時の御詠と伝えられるものである。
正和五年手動山内三郎兵衛尉通資は地毘荘地頭として相模鎌倉郡山内荘より移住、当山に築城し越田城と称したが武衛繁栄の山なりとて士冨山城(後に蔀山)と改めた、村の地名夛賀(たが)に本貫地山内を併せ地名家名とも夛賀ノ山内としたが後に夛賀ノ山(高野山)と称(たた)えるようになった。元亨二年積雪風寒烈とて甲山城に移り当城は弟通俊に譲った。元弘の変には南朝方に建武中興後は足利方に属し山内一族一揆の盟約をした。大永六年夛賀山通続は尼子方を離反し為に享禄二年尼子経久に攻略された。天文四年毛利元就の軍門に降り以来尼子毛利両軍争奪の地となり永禄十二年春尼子軍が当城攻撃中に出雲国造千家氏の勧奨により和談が成立した。通信の時毛利輝元より高松城後詰等の責を問われ天正十九年九月改易、斯くて築城以来二百七十五年にして滅亡やがて廃城となりしは哀れなる事也。
嗚呼今や郷人この山を神境聖域と敬うされば秘話物語遺跡は多く永く伝承されん事を

【石碑裏面】

蔀山城址碑建設者

高野町 高野町文化財保護委員会
高野町議会議員 高野町観光協会
新市区会

蔀山城址碑建設協賛者(年令順)

堀江鶴城 松長 優
白川隆則 高井修三
加島 鼎 湯川弥喜
後藤隆沖 大田好二
横川 渉 岸 博通
藤元司郎 児玉博彰
坂口孝三 植原登志雄
岡村達男 岩倉義男
藤原 弘 糸原春義
田中眞登 升原 彪
根波俊孝 山崎 治
井上博美 松島 聡
栗本敦次 義志 文

謹書 白根信夫
石工 落合倭男

工事施工者 藤元建設有限会社


【案内看板より】

蔀山城(しとみやまじょう)跡 
広島県指定史跡 平成四年十月二十九日指定

 正和五(一三一六)年、山内通資(みちすけ)により築城された。
標高七七五メートルに築かれた城は、東側と南側は急斜面の崖が切り立っている。
 山頂に本丸を、東方に二の丸と三の丸を置き、主要部とし、ここから東・西・南に派生する尾根へ、三十余りの郭(くるわ)が配されたという。
 鎌倉初期、通資は相模国山内荘から来住し、蔀山城を築城。その後、元亨年間(一三二一〜二四)甲山城へ移ってからは、弟通俊(みちとし)が在城することになり、家名を多賀山氏と改めた。
 享禄元年(一五二八)年には、出雲国の尼子氏に攻撃され翌年七月に蔀山城は落城した。
その後、安芸の国毛利氏の軍門に降り、尼子氏と数々の戦いに参加したが、天正十九(一五九一)年毛利輝元により改易を申し渡され、築城以来二七五年にて廃城となった。

設置年月日 平成十九年三月

設置者   広島県教育委員会
      庄原市
      庄原市教育委員会

案内図が設置されているが、かつて城があった土地形状がわずかに残っているだけのようだ。

ここしばらくはほとんど管理されていないようで境内は雑草が繁茂している。

木製鳥居が経年劣化により傾いたらしく、倒壊を避けるため工事用のトラロープで仮固定?されている

境内に設置された大仙神社も周囲を雑草に囲まれている

蔀山城跡の至近にある崩壊寸前の廃墟。
建造物の寿命は意外に短いのかもしれない

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