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久喜・大林銀山遺跡

三次市秋町の福原商店から1三次市内に向けて10km余りを引き返し、国道375号国道433号島根県道6号から案内看板にしたがって左にそれて進むと久喜・大林銀山遺跡が見えてくる

【案内看板より】

久喜・大林銀山遺跡「水抜き間歩」 ※間歩(まぶ)=坑道のこと

この間歩は、明治三十三年(一九○○)この上方の大横谷間歩、肥前山間歩、原間歩などの出水が多くなり、採掘が困難と鳴ったため、経営者堀藤十郎により水抜きのために掘られた坑道である。この時大鉱脈が発見され久喜銀山の最盛期を迎えることとなった。明治三十五年頃には坑夫や鉱員・その家族など住人は二千人を超えていたといわれる。

当時の農商務省鉱山局の記録には次のように記載されている。

鉄道  坑内 人力 七、四五○尺(2480m)
         電力    四五○尺(150m)
     坑外 人力 一、二○○尺(400m)

原動機 汽罐(蒸気がま)  一 十五馬力
      汽機(蒸気機関) 一 十六馬力
      水車        三 六五馬力
      発電機      二 四五kw
      電動機      五 三八kw

汽罐・汽機ハ送風用
水車ノ内一個ハ送風用、二個ハ発電用
発電機ハ電灯用及其ノ他ノ原動力用
電動機ハ排水、捲揚(まきあげ)、送風用

しかし、明治四十年には坑道上がり口が水没して銀の産出量が激減し、明治四一年には赤字経営となり、やむなく全鉱員を東出雲宝満山鉱山に移動し久喜銀山は閉山となった。
昭和二六年には中国工業㈱が鉱山の再開発を試みるが、おりからの銅価格の暴落により採掘を断念し現在に至っている。

現在この付近には、多くの間歩(坑道)群や大規模な精錬所跡・山腹のレンガ積みの煙道・大量の鉱滓を捨てた「からみ原」など、あるいは山神社・神宮寺や多数の寺院跡など、中世からの繁栄を偲ばせる多くの遺構が残されている。

平成十九年十二月

邑南町公民館連絡協議会
瑞穂文化研究会
久喜・大林銀山保全委員会

往時の姿が再現されたトロッコ

坑道内部の様子

これ以上奥に行けないように竹でバリケードが築かれている

坑道脇を流れる水は清浄だ

久喜銀山坑道図
アリの巣のように迷路状に掘り進められている

【案内看板より】

昔の人はどうやって銀を発見したの?

昔、『山師』という鉱山を見つける技術者がいました。山師は山の地形、岩石・植物などを見て鉱脈を探り当てることができ、全国のいろいろな所を歩いて金・銀・銅等の鉱脈を発見しました。
この久喜・大林・岩屋の銀山もそうした山師が発見した鉱山の一つと考えられ、山師が鉱脈を探すのに役立てた植物も多く自生しています。
写真①は『ヘビノネゴザ』という植物で、別名『金山草』といい、他の植物が育ちにくい重金属を含む土地にでもよく生えるため、鉱山を見つける参考にされました。
写真②はヘビノネゴザの根元です。普通のシダと違ってソテツ状に伸びて来るので、葉のつけ根が年ごとに上がってくるのが特徴です。
写真③は選鉱場跡のヘビノネゴザです。このようにヘビノネゴザが沢山生えている場所が久喜・大林・岩屋の銀山に多くありますので探してみてください。もしかしたら、あなたも鉱山の発見者になれるかもしれません。

【案内看板より】

山神社跡 

祭神:大山祇神金山彦神金山姫神

岩屋の大志茂(おおしも)家文書によると「同家初代佐貫(さぬき)甚五右衛門利政は上総(かずさ)の人で、元暦(げんりゃく)元年(1184)源平合戦のとき、石見国に来たり、文治元年(1185)に石見の国下谷に住し、久喜銀山を見出し建久年間(1190〜1198)山神社並びに神宮寺を建立す。」とあります。
その後山神社は、永禄(1558〜1570)元亀(1570〜1573)の頃毛利氏が領した時、抜擢されて銀山改役(あらためやく)・山組頭の要職についた同家14代佐貫小太郎までの佐貫家代々の当主や、元亀元年(1570)頃大横谷間歩を発見した小川惣助、慶長6年(1602)頃の大久保長安、万治年間(1658〜1660)には新鉱脈を発見した松井善兵衛等、大森代官所支配の中で260年守られました。また明治21年(1888)、堀家14代藤十郎伴成に久喜銀山が見直されると、15代藤十郎禮造による明治41年(1908)までの最盛期を見守り、820年余りの永きにわたり久喜銀山に関わる人々や地元住民に崇拝信仰されてきました。
しかし、その山神社も、平成23年(2011)の豪雪のため倒壊、最近まで守り続けられた山田家と後木屋集落の方々に最後のお祭りで見送られ、同年5月16日この地より百石集落にある八幡宮に合祀されました。

かつては豪壮な屋敷が建っていたであろうことを思わせる山田屋敷跡

最盛期の吹屋(精錬所)の存在を示す貴重な絵図
山中家文書久喜村絵図(個人蔵)

【上記絵図を含む案内看板より】

久喜村古絵図にみる久喜銀山

久喜・大林銀山遺跡は、16世紀中頃、毛利元就により本格的な開発が始められたものと考えられ、戦国末期から江戸時代初め頃に最盛期を迎えた鉱山遺跡です。19世紀初め頃に描かれたとされる大森の地役人宅に伝わる久喜村絵図には、山神社や神宮寺、間歩の坑口やカラミ原などが記されています。今日でも久喜精錬所跡の下層及び山神社や神宮寺付近で、古い時期のカラミや焼土の層が確認でき、この絵図の正確さを裏付けています。


大横屋間歩に続く山道

【案内看板より】

大横屋一帯は元亀元年(1570)小川惣助により400尋(ひろ)(約600m)の鉱脈が発見され採掘がはじまったといわれています。これ以降、久喜銀山は以前にもまして盛んになり、採掘の中心が岩屋から久喜に移ったものと思われます。大横谷間歩の岩盤は比較的しっかりしていて採掘しやすい坑道で内部は鉱脈にそって上に向かって掘り上がった大小の坑道や、横に別の枝わかれの坑道など多数見られます。20年くらい前までは、下の図①のように水抜き間歩と立坑がつながり梯子で行き来していましたが、現在は坑口より約150mの位置が崩落しており入ることが出来ません。

川向うの精錬所跡に向かう

【案内看板より】

精錬所跡とカラミ原

「精錬所跡」 (明治時代)
20数基の精錬炉跡が残っています。
精錬炉は直径約1メートルの円筒形溶鉱炉で、木炭と石灰を触媒に使用し、銀や鉛を抽出していました。
 炉内の温度を上げる送風装置は、アメリカで開発されたルーツ式と呼ばれる送風機2台で、その動力は水車と蒸気機関、モーターを使用していました。
 発電は精錬所前に設けられた水車を動力としていました。

「カラミ原」
カラミ原とは精錬時に排出される鉱滓捨て場のことです。
 面積約3000㎡、厚さ数メートルのカラミが廃棄されています。
溶けたカラミはバケツ状の容器に入れ一輪車で運んでいました。
今でもバケツ状に固まったカラミを観察することができます。

炉底滓(ろていさい)
純度が低く不採算、または分離に失敗した滓のかたまり

【案内看板より】

久喜精錬所跡

この遺跡は明治30年代に津和野の堀家が経営・操業した精錬所の跡です。明治36年発行の「雲石鉱山内容誌」によれば、甲装直立焼鉱窯(感想窯)2基・甲装焼鉱壁炉(焙焼炉)20基・溶鉱炉2基を備えていました。
設備としては送風用の汽罐・汽機の他、発電用水車2基・送風用水車1基が備えられていました。ここでは、久喜・大林で採掘された鉱石を選鉱し、乾燥窯・焙焼炉で熱処理を行い、溶鉱炉で精錬し含銀鉛を抽出、型に流し込んで製品にしました。煙は約110mの地下登煙道を通し、山頂に設けられた高さ15mの煙突から排出していました。生産された型鉛は馬車で川本に運び江の川を下し、浜田港から大阪に送られました。

久喜精錬所生産高(農商務省鉱山局資料より)
 明治38年含銀鉛210.5t(銀約1.9t)
 明治39年含銀鉛255.4t(銀約2.2t)

トイレ入口付近の壁面に貼られた地元紙と思われる色あせた新聞記事

そろそろ出発する

坑夫 (岩波文庫)

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