高八山城趾にて
午後2時過ぎに三和町上壱に到着。
城跡入口の見当がつかないので、道を訊くため国道375号線沿いにある上山(かみやま)郵便局に入ってみる
2人いた局員の方はいずれも城跡の存在を知らなかったが、約10分ほどの間、紙地図とタブレットで親切に調べてくれたお陰で上り口が無事判明。
お世話になりました。
上山郵便局前より教えられた方向を眺める。
画像左端辺りの山中に目指す城跡があるはずだが、30分ほど前からわき出してきた積乱雲でだんだん辺りが薄暗くなってきた
思ったより道幅が広いので、しばらくバイクで進んでみるが20mほど進んだところで路面がかなりぬかるんできた
諦めてバイクを降り、ヘルメットをミラーに引っ掛けてここからは徒歩にて先を進む。
なぜかこの辺でカメラの調子が悪くなり、以後は不慣れなスマホで撮影
こちらの登口は搦手(からめて)側になるのか。
先人達のブログで見たホワイトボードにマジック描きされた高八山城鳥瞰図を確認。経年のせいで彩色がかなり薄くなっている
搦手(城の裏門)入口
九十九折り(つづらおり)の道(幾重にも曲りくねった道)140m
看板を過ぎたらV字型に折り返すように落ち葉に覆われた斜面を登っていく(看板のあった登口を振り返って撮影)
辺りはますます暗さを増してきた。
空模様を気にしながら狭い山道を落ち葉を踏みしめて登っていく
立木に打ち付けられている「中間地点」を示す板看板。
入口まであと70m
【案内看板より】
高八山城趾
この山城は、もと南側の城山にあったが水の便が悪いため下手の山(山光寺山)に移ったと伝えられている。
築城の時期は、永正年間(一五〇四〜一五二〇)には築かれていたものと思われ実践的な山城である。
城主上山氏は、大江流の長井氏の一族が上山郷の地頭職に補され上山氏を名乗ったものという。
はじめは山内氏に属していたが永正以前より毛利氏に属し掃部助広信は天文十三年備後布野の合戦で討死している。
城主上山元忠の備中高松における奮戦後天正十九年毛利氏に従って広島に移り廃城となる。
(登口の案内看板と同内容)
よしだっち.comより転載
高八山城郭図
【案内看板より】
場所 双三郡三和町上壱
創築年代 永正年間(1504〜21)
別称 山光寺山城
創建者 上山加賀守実広(広房)
型式 山城(連郭式)
遺構 郭、井戸、土塁、石垣、空堀
(関係文献)
芸藩通誌
西備名区
高田郡史
毛利家文書
世羅郡誌
上山風土記
大粒の雨が落ちてきた。
まだ本丸と郭を見ていないが土砂降りの予感がする。
手ぶらで来たので残念ながらこの辺りで引き返す