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鷹島歴史民俗資料館

午後4時20分に今日の目的地「鷹島歴史民俗資料館」に到着

入口付近にある元寇カプセル前にて

【碑文より】
元寇の島である鷹島町
モンゴル人民共和国との
文化親善交流を記念し
二十一世紀に夢を託し
後世に今を伝えるため
元寇カプセルを埋設する

一九八八年十月十八日
 鷹島町長 宮本正則

元寇七百年祭記念之碑

松浦市立鷹島歴史民俗資料館

閉館40分前のせいか他に来客は無し。

入館料金表

元寇(蒙古襲来)の足跡をたどる

【説明パネルより】

■日本侵攻の真の目的

元(蒙古)の日本侵攻の真の目的はどんなものだったのでしょうか。それは、あるひとつの目的によるものではなく、いくつかの目的が重なって引き起こされたと考えられています。
 そして、文永11年(1274年)と弘安(1281年)、ついに東アジアの政治状況が複雑にからみあい、元による日本侵攻となったのでした。

南宋攻略のための一戦略

南宋攻略に手を焼いていた元(蒙古)の国が、南宋を物心両面で支えていた日本に圧力をかけるため、侵攻してきたというものです。
 元(蒙古)は、侵攻の前に日本に文書(国書)を送りましたが、これも日本に対する圧力のあらわれだったのです。当時の日本は、南宋から渡ってきた僧から、元(蒙古)の横暴なやりかたを聞かされていたため、返書もわたさず使者を追い返したといわれています。

■三別抄の反乱を静めるための戦略

元(蒙古)の国が占領した高麗の国の中で、最後まで抵抗する三別抄が、反乱を起こして珍島に立てこもりました。
 この三別抄もまた、日本にたいして兵糧などの救援を求めていたのです。この三別抄の反乱を静めるために、頼みの綱の日本をも侵攻しようとしたのです。

■高麗の抵抗を抑えるための戦略

元(蒙古)の国が占領した高麗の国は、長い間、国をあげて元(蒙古)に抵抗してきたところでした。そこで、高麗の元(蒙古)に対する抵抗をもっと抑えつけるため、高麗の兵隊や軍船を使い、日本に侵攻させることで、高麗の国力をさらに弱めようとしたものです。

■世祖フビライへの批判を外に向けるための戦略

フビライは元の王位(世祖)につくにあたって、モンゴルの掟をやぶり、遊牧を捨てて中国風の生活を好んだのでした。
 モンゴルでは、末子(末の子)に相続権があったのですが、フビライは、これをやぶって、自分が王位の座についたのです。そのため、モンゴル内部でも、フビライに対する批判が強まりました。そこで、フビライは、こうした批判をかわし内政を安定させるには、民衆の目を外に向けることが必要と考え、日本などを侵攻したというものです。

【説明パネルより】

鉄製冑 
Iron helmet
元 Yuan Dynasty/th.Century
鷹島海底遺跡(松浦市)
Takashima underwater site
Matsuura city.Nagasaki pref

鷹島海底遺跡で出土した冑は、頂部の突起の有無によって二種に分けられる。本例は、頂部に突起を持つタイプで、後頭部に張出しをもつ。この錆膨れした冑は、本体の金属部は空洞になっていることがX線スキャナの調査でわかった。

松浦市教育委員会保管

【説明パネルより】

蒙古軍の兵士が被った蒙古鉢と呼ばれた冑です。頭頂(てっぺん)の飾り金具は固定するため鋲止めがされています。鉄冑は直接かぶると痛いので、布や革などを頭に当ててかぶっていたそうです。

【壁面の案内パネルより】

(対馬に上陸侵攻して)日本軍を打ち負かした元軍(蒙古軍・高麗軍)は。ぞくぞくと島内に進攻し、民家はすべて火を放たれ、住民は、年寄りや子どもまで、ことごとく斬り殺され、地獄絵のようにむごたらしいありさまでした。
また、最後まで奮戦した対馬守護代の宗助国(そうすけくに)の首と胴は切り離され、島内を引き回されたといわれています。
 現在、対馬には、宗助国の首と胴が発見された場所に、それぞれ首塚、胴塚を建てて、島と運命を共にした悲劇の武将を祀り伝えています。

■元軍(蒙古軍)壱岐を襲う

文永11年(1274年)10月14日の午後4時ごろ、元軍(蒙古軍・高麗軍)は次の目標である壱岐に進攻を開始します。
夕闇迫る壱岐の北西海岸は、すでに数百の元軍が上陸し、しだいに島内深く侵攻を始めていました。
 元軍の襲来を知った壱岐守護代平景隆(たいらのかげたか)は、新城村の樋詰城を手勢百騎と共に出陣、途中の庄の三郎カ城の前で戦いを挑みます。しかしながら、しだいに押し返され、ついには樋詰城内に引いて、翌朝、敵に包囲された城内で一族みな自害しました。
 対馬と同じように、島内では住民が逃げ場を失い、男は斬り殺され、女は生け捕りにされたうえ、手のひらに穴をあけられ、そこに綱を通して、(弓矢よけのために)船べりに結びつけられたといいます。

■菅軍総把印(県指定有形文化財)

印台6.5cm 四方・厚さ1.5cm 鈕素丈高さ4.4cm・幅3.1〜3.4cm、
重さ726gの青銅製の印鑑です。鷹島南岸の神崎海岸で、漁民の貝掘り中に発見されました。
 印面部分はやや反りをもち、元の官用書体であったパスパ(八思巴)文字の篆体(てんたい)で、「菅軍総把印」と刻まれています。また、印背部分の鈕の横には、漢字体で「至元十四年九月□造」の紀年号と、印面の「菅軍総把印」の文字が刻まれています。ちなみに至元14年は西暦1277年にあたり、元寇の時期と一致しています。
 平成元年3月31日、県の指定有形文化財に指定されています。

【説明プレートより】

「菅軍総把印」とは

『元史』には、元の将校の級を位の高い順に「万戸」「千戸」「百戸」「総把」と定めています。
 このことから「総把」とはあまり位が高そうな地位とは言えなくて、500人部隊長程度の将校の意で、これがその部下を統括(菅軍)するもので、この地位にあったものが、弘安の役(1281年)の際、持ち込んだものと思われます。

元軍の鎧と鎖帷子(くさりかたびら)

鷹島海底遺跡

【説明プレートより】

松浦鷹島 水中考古学の世界

遺跡名 松浦鷹島海底遺跡
所在地 長崎県松浦市鷹島町南側海底一帯

概要  
松浦市の北側に位置する鷹島の南側海底一体に遺跡は広がっています。この海底では、古くから多量の壺などが引き上げられており、海底遺跡として知られていました。
本格的な海底発掘調査で1281(弘安4)年に起きた「弘安の役」に関係がある元寇関連遺跡であることが判明しました。この成果を受けて、鷹島南側海底一帯[海岸線から沖合200m、延長7.5kmの範囲の海底]を周知の埋蔵文化財包蔵地として陸上と同じく文化財保護法によって遺跡が保護されています。
海底から引きあげられたものの中には、てつはうをはじめ、木製の碇、碇に取り付けられた石[碇石]、船に取り付けられた部品、鉄製の冑、中国で用いられていた銅銭、青銅製の印、中国製や高麗製の陶磁器などがあります。

【海底から引きあげられた資料のスゴイところ】
元寇の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』に登場するてつはう[空中で炸裂する火薬を詰めた玉]や兵士が装着している鉄製の冑などが実際に見つかったことで、日本にはまだ存在していない武器や防具について知ることができると同時に、元軍の船に積まれたものや所持品など絵巻物ではわからない情報を知ることができます。そこがスゴイ。

海底から出土した木製品[脱塩処理中]

今回の発掘調査は、水深約13mの海底で、ドレッジ(海底掘削機)により海底堆積物層を掘削して遺物を確認し、その後に写真撮影・部面作成などの作業をおこないました。海底には、暴風雨で沈没したことを裏付けるように、多量の船材と積載物が散乱していました。船材は大型船の部材であり、ホゾとホゾ穴構造による組み合わせ方がよくわかります。
その他の遺物は多種多様であり、指揮官や兵士が身に付けていた甲冑の漆塗膜、バックル、ベルト飾り、短剣、大刀のほか生活用具である陶器や磁器類、銅製スプーン、宋代の名窯である鈞窯(きんよう)の碗などもみられます。なかでも特に注目されるものに『蒙古襲来絵詞』に描かれたてつはうの出土があげられます。てつはう(鉄砲)とは一種の炸裂弾です。歴史資料では以前から知られてはいましたが今回はじめて実物が出土しました。その他に矢が数十本束になったものがいくつかみられ戦闘の準備をしていた様子がうかがえます。
 このように今回の海底発掘調査成果は日本史に留まらず世界史に対して新資料を提供する貴重な調査となり、また日本ではまだ新しい学問である水中考古学の大きな成果となりました。

【説明パネルより】

元の軍船

鷹島で引き揚げられた最大級の碇を復元すると長さが約7mの大きさになります。この碇から推定すると、幅が10.7m、全長が約40mにおよぶ大型の戦艦が考えられています。
 江南の軍船3.500艘のうち、戦艦は1.150艘を数え、約33%を占めていたと推定されています。戦艦の乗組員は約90人。この当時の交易船よりひとまわり大きな船だったようです。
 元軍の船団は、戦艦・抜都児(バートル)・水汲船で構成されていた。全長18mの抜都児や全長11mほどの水汲船には、長さ50cm前後の碇石を用いた碇が装備されていたようです。

床に描かれた実物大イラストがガラスに映り込んで見にくいが、鷹島海底遺跡から出土した大型碇が展示されている

こちらは復元模型

各部寸法

元船の碇石

出土した大碇をPEG保存処理した大型装置

※PEG処理とは

PEG含浸法とは高分子化合物の一種であるポリエチレングリコール(polyethylene glycol)を水に溶かして染み込ませ、徐々に濃度を上げながら木製品に含まれる水分をPEGに完全に置き換える(置換する)方法を用いた保存技術。
ポリエチレングリコールは常温では固形を呈するが、温めることで液状化するので、約60°ほどの温度にしたポリエチレングリコール液に出土した木製品を浸け込んでおく。
薬剤の性質上、高温度・高湿度条件ではPEGが溶け出す可能性があるので、空調設備の整った場所で保管することが求められる。



人物探訪日本の歴史〈20〉日本史の謎 (1984年刊)より
P110〜P111を抜粋

筆者の故荒川秀俊氏は元東海大学教授で気象学の泰斗
[PDF]近代気象学の開拓者荒川秀俊博士略伝

元寇と神風 その史実を探る』 荒川秀俊

◆神風は二度とも吹いたか

明治以来、日本歴史では皇国史観とか、神州不滅とか言った神がかり的な考え方が強くなり、「日本の国が困ったときには、神風が必ず吹いて救われる」と言った牢固とした強い信念が日本国民の間に拡まって、抜くべからざる観を呈するに至った。
そうして、あの無暴な第二次大戦(太平洋戦争とも言われている)に日本が突入した時の人びとの心のどこかに、「勝てる筈はないが、いざという時には神風が吹いて、救われるに違いない」と言った果敢無い希望があった。
実際、戦争末期には、神風特攻隊が組織されたり、神風という戦闘機が現れたりしたのである。そうした願望を込めた表現の中には、何時かは神風が吹いて、日本を救ってくれると言った非科学的な身勝手な願いがこめられていた。
 そういう非科学的な願いを起こさせたのは、明治以来、長い間に培われた皇国史観もしくは神風史観のなせるわざであって、「戦没者約二六〇万、戦傷痍約一五万、更にそれに数倍する遺家族」(服部卓四郎著『大東亜戦争全史』より)を出した悲惨なる敗戦を経て、誤った皇国史観を唱導した歴史家は、正に慙愧に耐えないものがある筈である。
 皇国史観の大きな根拠となったのは、元寇と言われる文永・弘安の二度の外患において、二度とも神風が吹いて、敵軍が一掃され、国難が救われたと信じたり、主張するようになったのは、王政復古が叫ばれ出した幕末か明治以来のことであり、中世から近世中期に至るまでのスタンダードの史書には、そんなことは全く書いてないのである。

弘安の役には神風吹く

文永十一年(一二七四)と、弘安四年(一二八一)の再度にわたって、西日本に元と高麗の大軍が押しよせて来るという、いわゆる元寇があった。
とくに弘安四年の元寇のときは、元と高麗の連合軍は、総兵力が十万を越える大軍で全く容易ならざる大事件であった。しかし、丁度、元と高麗の連合軍が、博多湾の内外に集結した弘安四年閏七月朔市に、西日本へ台風が襲来して、元と高麗の連合軍の兵船は、殆ど全部覆没してしまって、敵軍は全く命からがらの状態で、本国へ逃げ帰ったのであった。爾来、元寇が神風によって救われたという史実が、国民の間に浸透したのであった。
 弘安四年閏七月一日は、現行の暦になおすと、八月二十三日にあたる。暦日で七月・八月・九月・十月は、わが国における台風シーズンで、台風が屡々来週して、大風雨が起こる季節である。また実際に台風が博多付近へ来襲したことは、『八幡愚童記』『一代要記』『勘仲記』『予章記』『増鏡』などの日本側の記録にも見え、『元史日本伝』『元史范文虎伝』『マルコポーロ旅行記』などの敵側の記録にも記載されていて、大風雨のあったことは疑う余地がない。

文永の役では神風は疑問

ところが、文永十一年十月二十日の夜、来襲してきた元と高麗の連合軍は、突如として博多湾頭から姿を消し、『八幡愚童記』には明くる十月二十一日、戦いに敗れて走る人びとの哀しき心情をのべて、「をりふしふる雨に涙おちそひて、いとど袂をぬらしける。……さるほどに夜も明ぬれば二一なり。あしたに松原を見れば、さばかり屯せし敵もをらず。海のおもてを見わたすに、きのふの夕べまで所せきし賊船一艘もなし。……」とあって、敵が引いて帰ったのは、わが軍にとって驚異であり。敵軍にとっては自発的で予定の行動であったように思われる。
これを敵側の記述によって考えれば、『元史日本伝』などには予定の行動に従って自主的に撤退したらしい記事があり、また『東国通鑑』には「忽敦曰く、小敵の堅、大敵の擒、痩兵を策して大敵と戦うは完計に非ざるなり。軍を回すにしかず。復享(ふくきょう)流れ矢にあたって先ず舟に登る。故に遂いに兵を引いて還る。会夜大風雨、戦艦巌崖に触れて多く敗る……」としてある。この『東国通鑑』は高麗側の記録であるが、これは実は、『大日本史』を編集するときに初めて日本側へ紹介されたものである。この記事によると、敵側では博多へ上陸して戦ったが、案外日本側は死力を尽くして抗戦する上、もはや冬になった(文永十一年十月二十日は現行の新暦では十一月二十六日にあたる)。糧食も矢種も乏しいので、先頭を続けるのは難しい。軍を撤退するのが良策だという軍議に従って、夜陰に乗じて敵方は敵前撤収をした。夜陰に乗じて危険な敵前撤収をするのだから、暗夜に足を踏みはずして海中に転落するものも多かったが、この撤収作戦は素晴しく旨く行って、日本側では翌朝まで気がつかず追尾してくる軍兵もいなかった。
言い訳がましく、高麗の『東国通鑑』には、その撤退中、たまたま大風雨があり、そのため軍船は博多湾内の浅瀬に触れていたんだものが多かったとしている。しかし、この敵前撤収は旨く行って、高麗では合浦に帰還した兵を労わってさえいる。そのとき、「軍還らざる者、無慮万三千五百余人」としている。
 元寇は大事件だったので、元寇に関する資料集が沢山できている。たとえば小宮山昌秀編『元寇始末』、山田安栄編『伏敵篇』などがあって、元寇に関する資料は、比較的容易に見ることができる。資料は万人が容易に参照できるのであるが、それを読解する態度に問題がある。
 たとえば、山田安栄氏の『伏敵篇』などは、そもそも敵国降伏を唱ったもので、明治天皇の宣旨(せんじ)を受けたこの本は、まことに厖大な著書であるが、前の『東国通鑑』の記事を上下転倒し、十月二十日の「夜、大風雨、賊船尽(ことごとく)砕ケ、溺死凡(およそ)壱万三千五百余人、余賊皆遁(にげ)ル、二十一日黎明、海上隻船ヲ見ス」と大書している。
即ち敵は軍議を開いて撤収作戦をして大成功をしたのを、夜大風雨が吹いて、殆ど全滅したことにし、流行病などで多く死んだ未帰還者一万三千五百余人を、全部一夜にして暴風雨で溺死したことにしてしまい、いかにも神風だ、皇国は神国だといったことにしてある。
 戦後になってからは、歴史学者皇国史観とか、神風史観を正面切って唱える人はなくなったが、反面いかにも歴史学者らしく、文献を重んじて、古い神社などに残っていた古文書をもととして、文永・弘安両度の元寇において、二度とも神風が吹いて国難が救われたとする悲しい主張が出るようになった。神社などに残っている文書は、すべて当社の神威あらたかで、文永の役にも弘安の役にも神風が吹いて国家が安泰であったとし、それにより神社仏閣が祈願の有難味を宣伝し、改築や恩賞を願望した不純な文書ばかりであって、採るに足らないものであることは、夙(つと)に大橋訥庵著『元寇紀略』(二巻)などで力説せられたところである。いわゆる聖戦では徹底的に敗れ去り、天皇アメリカに詫びを入れた現在においては、大いに反省すべき歴史家の態度と言わねばならない。