生月町博物館・島の館
「生月町博物館・島の館」駐車場から生月大橋を望む
橋の反対方向に目をやると「風の辻ぐるぐる公園
」の発電風車が見える
セミクジラ親子のモニュメント。
噴水設備があるが現在は休止中
「生月町博物館・島の館」正面玄関
入場料¥510也を支払い入場。
松浦史料博物館に続き、ここでもわざわざ撮影許可を取ったにもかかわらず、カメラもしくは撮影者の調子が悪いためか見苦しいピンぼけ画像が全体の3割近くを占め、帰宅後確認して脱力
奥に向かって進んでいく
勇魚とりの物語
昔、西海に
生月という島がありました
ここでは冬から春にかけ
沖合を大きな鯨が
泳いでいきました
人々は鯨を勇魚(いさな)と呼び
みんなで協力して
とるようになりました
江戸時代、西海で主にとられていた鯨たち
児鯨 (コク鯨)こくじら
画像ピンぼけのため割愛
【説明看板より】
背美鯨の頭骨
昭和四十七年舘浦(たちうら)港湾の拡張工事中に海底で発見された。
この鯨の骨格は長崎大学の鑑定によると、背美鯨の頭骨(上顎骨)の一部で生月で捕鯨が営まれていた証拠品であり、学術的にも貴重なものである。
生月で捕獲されていた鯨の中で背美鯨は最高級品で本魚といわれた。その他の鯨は雑物といって背美鯨一本で雑物二本に相当していたという記録がある。
【説明プレートより】
捕鯨銃
寄贈:大浦勝一郎氏 森田茂氏
小銃タイプで口径28ミリの捕鯨銃。
平戸の鉄砲鍛冶が、アメリカのブランド式捕鯨銃をコピーして作った。重量は10キロ近くある上、重い火矢(ボンブランス)を発射するため、鯨に命中させるのには熟練を要した。
一階中央に設営された壮大なスケールのジオラマ
「勇魚とり」
【説明プレートより】
この模型は、生月島の北部、御崎浦(みさきうら)にあった益冨組(ますとみぐみ)の鯨納屋場を捕鯨図説「勇魚取絵詞(いさなとりえことば)」を参考に、30分の1で推定復元したものです。中央の建物群が、鯨の解体・加工をおこなう納屋場で、左側の広場とそれを囲む建物は、道具の製作・整備をおこなう前作事場(まえさくじば)です。捕鯨のシーズン中はみんな納屋場内に住み込んで作業に従事していました。
御崎捕鯨納屋場の大型ジオラマ
(詳細かつ丁寧な音声解説付き)
【説明プレートより】
75ミリ捕鯨砲
共同船舶株式会社 寄贈
捕鯨砲は、綱が付いた銛を火薬の爆発を利用して発射して鯨を捕獲する道具である。この捕鯨砲は、南氷洋での捕鯨に活躍したキャッチャーボート、第十八利丸(753トン)の船首に載せられていたものである。
銛が命中すると、先端の爆薬が爆発して鯨は即死するが、銛爪が開いて鯨体をつなぎ止め、船のウインチで綱を巻いて回収する。
ミンク鯨の雌雄生殖器
天井からぶら下がる骨格標本
【説明パネルより】
巨漢力士
生月鯨太左衛門(いきつきけいたざえもん)
生月鯨太左衛門は、相撲界の歴史の中で最大の身長を誇る力士です。
文政十年(一八二七)生月・舘浦の漁師の子として生まれ、幼名を要作(ようさく)となづけられました。
要作は子供の頃からすでに身長が大きく、富豪の親戚の家に行った時、そこの旦那から米俵を持ち上げられればくれてやると言われ、軽々と抱えて帰ったという逸話が伝えられています。
平戸藩主・松浦公の勧めもあり、大阪の小野川部屋、次いで江戸の玉垣部屋に入門し、生月鯨太左衛門というしこ名を貰い土俵に立ちました。身長はさらに高くなり、七尺五寸(二二七センチ)に達しましたが、嘉永三年(一八五〇)二四歳の若さで病死しました。
鯨を思わせる巨躯は、当時、鯨の島・生月の名を大いに宣伝してくれたことでしょう。
二階フロアには昭和初期のカクレキリシタンの住まいを復元したスペースなどキリスト教関連の興味深い展示物が充実していたが、撮影失敗につき記事を割愛
ハングルのみで書かれたトイレの注意書きが気になるが、そろそろ大バエ灯台に向け出発する。