徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

さよなら奥の湯温泉

忙しさにかまけ、丸3ヶ月間ブログを放置してしまったが、今日明日中にアップしないと書きかけた記事が無駄になるので頑張って仕上げてみた…。

この付近へは毎年数回は訪れているのだが、奥の湯温泉の定休日の来訪が重なって、ここ3年ほど素通りが続いていた。

今回は、ツーリングついでの思いつきではなく、今日(1月31日)が営業日であることを確認した上で、奥の湯温泉に入ることのみを目的とした来訪だ

久し振りに見た営業中の正面玄関は何とはなしに活気が感じられるが、それでも休業日に毛が生えた程度の閑静さ

到着したのが、午後2時を回った頃でかなり腹も減っていたので、先に食事してから風呂に浸かることにして食堂に向かう

食事を終えて立ち上がりかけていた先客の1組を横目で見ながら食堂スペースに入り、ここでの冬のお約束ともいうべき「しっぽくうどん」¥380也を注文

飼われているらしい数匹の猫と小鳥の巣箱がガラスの向こうに見える

約5分ほどで出来上がりを告げられたのでカウンターまで取りに行き、貸切状態の室内で温かいうどんをすする

食事を終え、楊枝を使いながら室内を見回していたら壁面の張紙に気がついた

やはり、人気もまばらな山奥ではなかなかに厳しい経営状態だったのかなどと思いつつ食堂を後にして浴場に向かう

男女浴室入口

平成29年2月27日閉館
奥の湯温泉 41年余の歴史に幕

【浴場入口付近の貼り紙より】

奥の湯温泉(詳細)

昭和51年1月に竣工し、ここに塩江町老人福祉センター「奥の湯温泉」と命名され、同年2月開業されたのでございます。

爾来、今日に至るまで40年余の永きにわたり、町民はもとより県民をはじめ県内外の人々の健康増進と憩い場として、さらには奥塩江の発展、阿波への中継休憩地として大きく寄与されてまいりました。
しかしながら耐震対応のためとはいえ、平成29年2月27日を持って閉館されることは誠に忍び難く、残念無念でございます。
ここに人々に対し、幾多の限りない功績をされた「奥の湯温泉」に敬意を表するとともに、一時も早く新「奥の湯」が建設され、訪れる人々と地域住民に対し、前述の目的が再び達成され奥塩江の復興の一助になればと切に願い、本DVDを閉館記念製作品として発行いたした次第でございます。

平成29年1月
高松市香川町大野
高松観光ボランティアガイド
井上広美(ボラひろみちゃん)

なるほど、耐震対策が難しかったための閉館だったか。
香川で一番好きだった温泉が無くなるのは寂しいがこれも時代の流れか…

【同じく浴場入口付近の貼り紙より】

塩江物語(詳細) ※以下原文のまま

① 塩江温泉の由来
塩江は古くは潮江とも書き、江は井のあて字であろうといわれているのでございます。
井は温泉をさしており、温泉の水が普通の水の味と異なっており、鹹(しおはゆい)ので潮又は塩の字を用いたものといわれているのでございます。

※「しおはゆい」はしょっぱいの意

温泉の由来は明らかでなく、江戸時代中期ごろに書かれた「安原古跡物語」の「塩江畧縁起」には、天平年間(729〜748)僧行基菩薩がこの地に来た時、湿疹にかかり、さまざまな治療をし、神仏にも祈ったがその効がなかった。その時ひとりの聖(ひじり)がきて、自分もハンセン病で病んで困っているが、不思議の霊水があることを知ったので、そこへ行って侵するようにと行基菩薩を案内して、岩部の奥へ行き、四〜五町先の川辺にある霊水に浴せよといって消えうせた。
行基菩薩は尋ね行って潮のさしひきのある江(井の意味)の水にひたったところ、全快したので、その聖を聖権現と祭った。その後、年月を経て知る人もいなかった・・・と書かれているのでございます。

これはもちろん伝説であって、諸所の温泉にある伝説と同じものである。行基菩薩の出た八世紀ごろから出ていたかどうかはこの伝説では明らかでなく、ただ古い時代から出ていたものである。
文政四年(1821)十月に写した安原記(安原村塩井記)の「塩之井畧縁起」にも同じことが伝えられているのでございます。
※参考文献 新修塩江町歴史(香川県立図書館所蔵)より
すくなくとも、塩江の温泉は1300年の歴史があるといわれているのでございます。

② 香川県名は塩江の樺川から誕生
1873年、高松県と丸亀県が合併した際、県中央部に位置した郡名「香川郡」を県名して誕生いたしました。
江戸時代には、いくつかの藩がありましたが、明治4(1871)年に、廃藩置県で高松県と丸亀県ができ、そのあと、おとなりの徳島県愛媛県とひっついたり、離れたりしながら、明治21(1888)年12月3日に今の香川県が生まれたのでございます。
ちなみに「香川」という名前は、「香の川」(かのかわ)からきているといわれているのでございます。
むかし、香川の奥山に、樺川(樺河)というところがあり、その地に「樺の木」が生えていたそうでございます。
そこから流れる川(今の香東川(こうとうがわ)という説があります)の水に樺のいい香りが乗って流れていたことから「香川」という呼び名が広まったそうでございます。
「香川(かがわ)」の名前の由来は、江戸時代後期の「全讃史」(ぜんさんし)という本に書かれています。
※参考文献 かがわキッズより

③ 塩江町は阿讃山脈の山ふところにいだかれた砂岩地帯から流れ出る香東川の清流の朝夕眺め、いわゆる山紫水明の里でございます。
春・夏・秋・冬、四季とりどりの景観は、町全体が自然公園といっても過言ではございません。
ことに古いいわれをもつ塩江温泉を中心として、大滝山、竜王山、不動の滝、ハギの最明寺などは古くから名勝地としてその名を知られていますが、昭和28年(1953年)内場池ができてから県下有数の観光地として脚光を浴び、さらに県民いこいの森、奥塩江、塩江六甲(テレビ塔のあるところ)などの新名所が生まれたのでございます。
加えて国道193号の完全舗装ができてから、高松ー塩江間は自家用車でわずか30分と交通も一層便利になって、観光地とし塩江町の前途は洋々たるものとなったのでございます。

【同じく浴場入口付近の貼り紙より】

塩江温泉鉄道(詳細)「塩江町歴史資料館」文献引用

明治末期に宇高航路が開設されて、四国の玄関高松に人が集まるようになると、高松と門前町琴平を短絡する鉄道建設の機運が高まり、県内の有力者大西虎之介や、景山甚右衛門らが中心となって同区間に電気鉄道の免許を得た大正13年(1924)7月に会社を設立、その後、四国発の本格的高速電車として瓦町〜琴平を結ぶ路線の建設が開始され、大正15年(1926)12月21日に栗林公園〜滝宮間を開業しました。

昭和2年(1927)全線開通した鉄道の設備は、軌道は広軌(1435ミリ)を採用し、車両は全て新鉄で、汽車製造会社製の1000型及び日本車輌製の3000型を各5両、さらに昭和3年には加藤車輌製の5000型を購入したのでございます。

琴平電鉄は阿讃国境と塩江温泉郷開発のアクセスのため、昭和3年(1928)8月21日に塩江温泉鉄道を設立し鉄道の敷設を開始しました。着工後、昭和4年11月12日に仏生山〜塩江間(16.1km)を開業したのでございます。社長は琴平電鉄の社長である大西虎之介が兼務いたしました。

この鉄道は非電化の鉄道では唯一広軌(1435ミリ、対して狭軌は1067ミリ、当時は国鉄も私鉄もほとんど狭軌を採用していた)を採用した内燃鉄道(燃料を燃焼させるところと力を発生させるところが同じところにある、対しては蒸気機関車の外燃料鉄道)でありました。

琴平鉄道が広軌であったため、琴平電鉄からの貨車直通を念頭においていましたが、直通運転は実現されなかった。開業に合わせて新造された車両5両は川崎車輌が手がけた初のガソリンカーでありました。以後廃線までこの5両のみが営業されたのでございます。

塩江温泉では、琴平電鉄が塩江温泉株式会社を設立し、演芸場付きの温泉旅館を経営した専属の少女歌劇団を養成して「四国の宝塚」として売り出し、定期的に催物を企画して運賃割引を行うなど積極的に営業活動を行ったものでございます。

しかしながら当時の経済不況もあり経営は苦しく、塩江温泉鉄道昭和13年(1938)7月6日付けで琴平電鉄に吸収合併され、琴平電鉄塩江線となったのでございます。

しかし、琴平電鉄に吸収された後も営業好転の目途はたたず、台風により第一香東川橋梁の橋脚が流出する大被害を受けたり、燃料であるガソリンの統制が厳しくなるなど営業まますます困難となり、塩江線は開業からわずか12年後の昭和16年(1941年)5月10日に廃止されたのでございます。廃線後、レール等の鉄道施設は台湾製糖株式会社に売却され、車両は満州に渡り新京(現在の長春)の市電となったのでございます。

廃止後70年となる現在でも、各地に廃線遺構が残っています。仏生山駅から香川町浅野にかけては道路となっており、当時の面影はないが、路線がガソリンカーであったため「ガソリン道」として親しまれているのでございます。

「奥の湯温泉 記念碑全文」

古来よりこの地の川岸の巌穴から乳白色の鉱泉水が汲めども尽きずこんこんと湧出し これを里人が汲み取り霊験あらたかなクスリ水として活用していた その後昭和13年の台風災害によって埋没していたのを塩江町が地域振興はもとより町発展の基本的な資源として開発しようと図り土地所有者に所有権の譲渡を請願したところ大いに賛同快諾を得た
昭和四十八年五月温泉法による掘削許可を得 県衛生研究所の分析結果も温泉法に定める温泉としての確証を得たので 昭和四十九年七月福祉施設として建設に着手し翌五十年一月に竣工した ここに町立老人福祉センター奥の湯温泉と命名 同年二月開業 以後引き続き環境の整備 施設の増築更には内部の模様替え工事等を重ねて現有規模の鉄筋コンクリート造り三階建延千六百二十八平方メートルの施設となり 計画の目的が完遂出来たのである
次いで昭和五十三年七月屋上に湯の神を入魂し湯の神神社として奉賛会を組織 毎年秋季に例祭を挙行し この地の発展と共に塩江町の永遠の繁栄を念ずることとし今日を迎えた ここにその梗概を刻し永く後世に伝えるものである

撰文 笘篠明行 藤澤守之

「ようこそ奥の湯温泉へ」アーチ正面

アーチをくぐった正面に見える2階ガラス窓の向こうが男湯。女湯は川に面した裏側になる

営業日は残すところあと2日なので、思い入れのある方はぜひ訪れて頂きたい