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来島にて その1

約5分の船旅なのであっという間に来島に到着。

船着場に降り立つと、来島城跡の案内看板と魚霊塔の背後に八千矛(やちほこ)神社の拝殿が見える

【案内看板より】

来島城跡【来島村上海賊の歴史】

瀬戸内海は古くから、中国、朝鮮との交通網として、文化や物資の導入に重要な役割を果たしていた。伊予〈現在の愛媛県〉の海賊衆は、南北朝時代には既に瀬戸内海に強い影響力を持っており、中でも伊予大島を中心に勢力をふるっていた村上氏は、応永26年(1419年)、能島・因島・来島の三家に分かれて更に勢力を伸ばし、戦国時代には瀬戸内海の支配者的存在となっていた。
 来島は瀬戸内海第一の難所、来島海峡の要に位置し、周囲わずか850メートルの小島であるが、急流に守られる天然の要塞で、難攻不落の海の城郭としてその名を西国中に知られ、築城以来約160年間、6代にわたり、来島村上氏の居城であった。
 古図によると、島の周囲には石垣をめぐらせ、標高47メートルの山上には、三段に削られた本丸・二ノ丸・三ノ丸が設けられていた。
城主館跡の心月庵には城主の位牌が安置され、付近には館跡、空堀跡もみられる。島内には、櫓跡、石垣・矢竹・古井戸などが確認され、島の周囲の岩礁上には桟橋跡の柱穴が無数に残されている。
 来島村上氏は、早くから豊臣秀吉方についたことで大名となったが、関ヶ原の合戦で西軍として戦った為、徳川時代には、九州豊後〈現在の大分県〉の森藩へ転封となった。来島村上家はその後、姓を久留島に改め、明治の廃藩置県まで存続した。

観光パンフによれば、この八千矛神社は松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の河野氏が来島城の守り神として、建立したと伝えられているという。

堤防の上から神社拝殿を眺めると、大山祗神社の神紋「折敷に縮三文字」が見える。伊予の豪族「越智氏」「河野氏」の家紋でもある

堤防から境内を見下ろすとこんな感じ。
中央に設置されたブランコが真っ赤に錆びている

右奥は台風対策のために4ヶ所を鎖で繋がれた本殿

さて、どちらから行ってみようか

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