徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kが徘徊中

来島にて その7

堤防に沿って島の東側へ歩くと、見慣れない三角形の標識?が2本立っている

標識の柱にはNTTによる「陸標2」の表示が

【注意看板より】

おねがい

水底電話ケーブルがこの付近に埋めてあります。損傷しますと電話が通じなくなりますから注意してください。

連絡先
NTTワールドエンジニアリング
マリン株式会社

フリーダイヤル
0120-304-942

これが「水底ケーブル」らしい

標識のすぐ近くには水面下に向かうインクラインが敷設されている

メンテナンス用かケーブルの埋設工事に使われたものだろう

来島城本丸跡に建つ鉄塔を海岸付近から見上げる

干潮なので海岸に降りてみる

潮流の様子

柱穴跡

【来島保存顕彰会による観光パンフより】

岩礁に在る無数の穴は桟橋の柱を建てた跡だと言われています。
(満潮時には見る事ができません)

穴の周囲には茹でて食べると意外においしい「亀の手」が

※地域により、漁業権が設定されています。
漁業権者の同意なく採取等をすると、漁業権侵害罪として罰金刑に処せられることがあります。

海岸に打ち上げられたおそらく船舶用の「元」機械類。
海岸付近を長い年月転がったことによりオブジェと化している

どんな経過をたどればこのような造形が生まれるのか

海岸づたいに島の北端まで行けなくもなさそうだが、船便の都合があるのでこの辺りで引き返す

【来島保存顕彰会による観光パンフより】

来島村上水軍の歴史

瀬戸内海は、日本の交通の大動脈でした。
古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、漁業や農作業をしながら、舟の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしたりしていたと考えられています。

〈平安後期・室町時代

①瀬戸内海に水軍登場
瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれて、瀬戸内海の海で暮らしていた人達も集団化・組織化されるようになりました。

芸予諸島・瀬戸内海を支配
海賊衆の中で最も力をもった村上水軍の村上師清(もろきよ)は、三人の子供達を因島・能島・来島に配置して、芸予諸島(しまなみ海道)を封鎖。瀬戸内海を支配するようになりました。

〈戦国時代〉

③伊予の守護大名河野氏重臣になる
戦国時代の来島村上氏は、伊予国(今の愛媛)の大名河野氏と親戚関係でした。来島の当主村上通康(みちやす)は河野家で最も有力な武将でした。

④日本の歴史を変えた!?厳島合戦!!
西の桶狭間とも言われる厳島合戦陶晴賢(すえはるかた)と毛利元就の戦いです。勝利した毛利氏は中国地方の覇者として歩み始めました。村上水軍は、「毛利氏の勝因は村上水軍を味方につけた事」と言われる程の大活躍をしました。

⑤戦国時代末期・三家分裂
織田信長と毛利氏の戦いに参加した村上水軍は大きな変化を強いられます。村上三家は分裂し、因島・能島は毛利方へ、来島は織田・豊臣方へと分かれて戦います。この頃から村上通総(みちふさ)は来島通総と名のるようになりました。

安土桃山時代

朝鮮出兵
来島通総は、秀吉の命令で水軍大将として二度の朝鮮出兵へと参加し、二度目の慶長の役の時に鳴梁(ミョンリャン)海戦で戦士してしまいます。

〈江戸時代〉

⑦九州・豊後の森藩へ
因島・能島・来島の中で唯一大名として残った来島氏も、徳川家康の命令で九州の海の無い、森藩へ(現在の大分県玖珠町)移動となり、姓を久留島と改めます。その後、森藩は12代、明治維新まで存続しました。

海の無い九州森藩には、多くの家臣は付いて行きませんでした。
森藩に付いて行かなかった、来島水軍の多くの家臣達が、その後塩田開発を行い、海運の仕事や舟を造る仕事をしていました。
その人達が現在の今治市の海運・造船の礎を築いたと言われています。