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松山市北条辻の鹿島にて(その5)

松山市北条鹿島博物展示館「かしまーる」に入ってみる

【案内パネルより】

鹿島の歴史

■7世紀の中ごろ、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内海に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。

■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334~1338)に今岡四郎通任(いまおかしろうみちとう)によって、階段式連郭構造の鹿島城が築かれました。

天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。

■現在、城郭遺跡としては、島の東北にある二ノ段郭と高さ2~3m、長さ約50mの石垣を残すのみです。

■この島には、神功皇后仮宮(かりみや)の伝説をはじめ、その出征の物語を残す髪洗磯(かみあらいいそ)、山頂御野立の巖(おのだてのいわ)、また河野通有元寇への進発、壇ノ浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。f:id:YBR125K:20190420192543j:plain

鹿島城主、久留島(来島)通総と道康の肖像f:id:YBR125K:20190420194134j:plain

【案内パネルより】

北条・鹿島の歴史と文学

河野氏と善応寺(ぜんのうじ)

◆平安末期から中世にかけて北条・風早地区は、河野氏が治めていました。当時、その本拠地のあった河野郷土居は、地方政治の一大中心地になっていました。14世紀前半本拠地は松山の湯築城に移って行きましたが、土居の跡地の善応寺は現在もその面影を残しています。

 

産経ニュースより 松山の善応寺、築300年と判明 再建時の棟札見つかる 「河野」姓発祥の地

 

一茶と虚子

◆江戸時代を代表する俳諧師小林一茶は、二度、北条を訪れています。一度目に上難波の西明寺(現在の最明寺)を訪ねて通った道は、現在、風早・一茶の道として俳句愛好家に親しまれています。

◆松山出身の俳人高浜虚子は、幼時、北条・柳原に住んでいました。その後も帰省するたび、幼時を懐かしみながら沖に浮かぶ鹿島を眺めていたことが文章に残されています。

また、鹿島を訪れた際、「鹿の舌 秋草の上に 赤く動く」と詠んでいます。

 

鹿島の文学碑

◆文学が盛んだった北条風早地区の影響を受けて鹿島には多くの句碑・歌碑があり、文学愛好家が訪れています。

◆北条出身の作家・早坂暁(はやさかあきら)さんと親しかった俳優の渥美清さんは、鹿島をことのほか愛し何度か訪れています。早坂暁さんの書による渥美清さんの句碑が平成25年に建立されました。

 

昭和の鹿島はかなりの賑わいをみせていたf:id:YBR125K:20190420200342j:plain

今となっては跡形もないf:id:YBR125K:20190420200525j:plain

 5月3日は北条鹿島まつりf:id:YBR125K:20190420200049j:plain