小島(おしま)にてその1
芸予要塞の島『小島』に渡るため、久し振りに波止浜港にやってきた
波止浜港の対岸には今治造船のドックがあり、建造中の新造船や修理中の大型貨物船(パナマ船籍が多い)が係留されている
12時45分の出港時間までにはまだ15分ほどある
近年、ひたすら雨に泣かされていたが、今年は不思議なほど天候に恵まれている。
今日も雲ひとつない素晴らしい快晴で絶好の観光日和だ
出港時刻になり、ディーゼルエンジンの鼓動が大きくなる。小島までは約10分の船旅だ
出港から約5分で来島港に到着
着岸するやいなや数名の釣り客を下ろし、慌ただしく小島に向って出港
小島の埠頭の向こうに来島海峡大橋が見える
自身のみを降ろした船はあっという間に埠頭を離れた
陸奥記念館にて
本州と周防大島を繋ぐ大島大橋。
2018年10月、貨物船が橋梁に衝突して水道管他の設備が破壊された
19時10分の船にはまだかなり余裕がある。
陸奥記念館の閉館時間には間に合いそうにないが、日が暮れるまでには砲塔他の野外展示は見ることができそうだ
午後5時過ぎに陸奥記念館に到着
【案内看板より】
予科練とは海軍飛行予科練修生の略称なり
甲飛十一期生は昭和十七年十月一日全国より厳選され旧制中学(一六、七才)より五八五名土浦海軍航空隊に入隊す。
昭和十八年六月八日艦隊艦務実習の為、土浦航空隊より派遣の同期生一同は戦艦陸奥、長門、扶桑に分かれて乗船、陸奥に乗艦せる同期生一三五名中一ニ四名が陸奥と運命を共にする。
残る同期生一同は予科練卒業後各戦斗航空隊に配属となり比島台湾南洋沖縄本土防衛の各航空戦及び神風特別攻撃隊員として航空戦の主力として終戦までにニ三七名が戦死することに至って同期生のほぼ三分のニに当る計三六一名が散華する。
昭和五十三年六月八日生存同期生及び遺族により戦没同期生の鎮魂と恒久平和を祈念しこの緑の地に「若鷹の碑」を建立す。
生存者(戦後死亡十一名を含む)の氏名も碑に刻んでありますが、いずれ他界したらその魂はこの碑に戦没同期生と共に眠りたいとの念願から同期生全員に氏名を刻んであります。
沈没地点を指し示す矢印
陸奥記念館正面入口
本日は閉館しました
陸奥記念館入口に安置されている艦首錨
陸奥について
岩国城にて
ロープウェイのゴンドラを降りて
こんな感じの山道を淡々と上っていく
豊かな自然は生き物にとっても楽園
上るにつれて視界が段々開けてきて
岩国城が見えてきた
【案内看板より】
岩国城 Iwakuni Castle
初代岩国藩主吉川広家により1608年に作られた山城です。1615年の一国一城令によりわずか7年で破却されました。現在の天守は1962年に再建されたものです。
天守内には武具などを展示しており、天守最上階からは、岩国市内の眺望を楽しめるほか、城周辺では約400年前の石垣や空堀跡なども見ることができます。
受付でチケットを見せて
狭く急な階段を上っていくと
由緒ありそうな刀剣類が展示されているが、あいにくこの方面にはまったく疎いせいでたいした興味もない
【案内パネルより】
元和元年(1615)、江戸幕府により一国一城令が出され、各地の大名はその領国に応じて残せる城以外はすべて廃城とし、壊さなければならなくなった。このとき、岩国城を壊すよう毛利輝元らの命令があったが、吉川広家は周防国には岩国以外に城がないため、壊す必要はないのではないかと主張する。しかし、長門国では萩本藩の萩城を残すために長府の毛利秀元の城を壊さなければならなかったため、岩国の城も壊すようにと重ねて伝えられ、最終的に壊すこととなった。関ケ原の戦いで吉川広家が毛利輝元に相談せず徳川家康と密約を結んで以降、毛利氏の一族団結において感情的不和が心配されたため、その配慮もあって壊したともいえる。また、寛永14~15年(1637)にかけておこった島原の乱において、壊された城跡が再利用されたことから、石垣についても破壊が命じられた。これにより石垣も壊すこととなったが、山の麓に御土居がある東側の石垣が安全上残されたのをはじめ、壊されていない箇所もあることから、吉川広家が城の破壊に消極的で、対外的に破壊しなければならない最低限の範囲で破壊したことが分かる。なお、山上の城郭は失われたものの、御土居は藩主の居館であるとともに政治の中心地であったため、明治時代はじめまで残っていた。
吉香公園ではしゃいでいた子供達も上ってきたらしい
天守閣に設置された双眼鏡に100円硬貨を入れ、河原に駐めたバイクを確認してみたりして
三津浜港行きのフェリーの出港時間を思い出し、一瞬よぎるツアー最終日の侘しさを振り払いつつ足早に階段を降りていく
今年は全国的にクマ被害が拡がっている
さよなら岩国
錦帯橋と吉香公園その4
【碑文より】
石の翼 岩国ライオンズクラブ20周年記念
日本人の心の深層には
物と語り合える優れた感性がある
その上に
自然の恵みを共有する思いやりがある
澄川喜一
立志の碑
元東京学芸大学長 彫刻家 澄川喜一先生のことば
昼食を終えた小学生達がそこかしこではしゃいでいる
自宅を出発して以来、今日まで空を支配していた青が徐々に灰色に変わってきた
広大な園内をロープウェイ乗り場に向かって歩いていく
ロープウェイ乗り場の手前にある柏原美術館
お勧めのセット券は錦帯橋入口で購入済
次の便までは10分待ち
さすがに発車間際になるとどこからか集まった乗客によりこのゴンドラが満員になった
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)を見下ろしながら岩国城に向かう
ゴンドラ内で頭上を見上げると疫病退散のアマビエが
錦帯橋と吉香公園その3
公園手前に立つ吉川広嘉公像
【案内看板より】
吉香公園 Kikko Park
江戸時代に岩国を治めた吉川家の居館跡地に整備された公園で、「日本の歴史公園百選」に選定されています。
春は梅や桜にボタン、お堀沿いにはツツジが咲きそろい、夏は花菖蒲、アジサイ、秋には紅葉など四季折々の植物が楽しめます。
「さくら名所100選の地」の碑
公園利用に関するお願い
この付近にはほとんど人影がないが、遠くで子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
遠足に来たと思われる小学生達の一団が、思い思いの場所に別れて座り弁当を広げていた
とりあえず吉川家墓所に行ってみる
【墓所入口の案内タイルより】
岩国藩主 吉川家墓所は、岩国藩3万石(後に6万石)を領有した吉川家一族の墓所です。
墓所内には、6代藩主経永(つねなが)を除く藩主の墓と妻子の墓や石灯籠・手水鉢があり大名の墓所を知る上での貴重な史跡として、昭和63年(1600)の「関ヶ原の戦」以後、約270年にわたり、岩国藩主を継承しました。また、その一方で岩国文化の発展にも力をそそぎ、岩国の基礎を築き上げました。
岩国市
吉川家納骨堂
【納骨堂入口の案内タイルより】
吉川家の移り変わり
■安芸(広島県)吉川家
毛利元就の次男 元春
勇猛な武将 元長
■岩国藩吉川家
藩の基礎をつくる
初代広家 慶長5~19年(1600~14)
経済力を強化する
2代広正 慶長19~寛文3年(1614~63)
文化を発展させる
3代広嘉 寛文3~延宝7年(1663~79)
最も安定した時代
4代広紀 延宝7~元禄9年(1679~96)
2歳で藩主になる
5代広逵 元禄9~正徳5年(1696~1715)
藩の財政が悪化する
6代経永 正徳5~明和元年(1715~64)
徳山藩からの養子
7代経倫 明和元~寛政4年(1764~92)
財政改革を行なう
8代経忠 寛政4~享和3年(1792~1803)
在職3年で死去
9代経賢 亨和3~文化3年(1803~06)
財政改革が成功する
10代経礼 文化4~天保7年(1807~36)
財政改革を引き継ぐ
11代経章 天保8~14年(1837~43)
長州藩を助ける
12代経幹 弘化元~明治元年(1844~68)
最後の藩主
13代経健 明治元~4年(1868~71)
土壁で区画されている墓所は珍しい
錦帯橋と吉香公園その2
錦帯橋を渡り切って公園方向に歩いていくと、お土産店や食事処が見えてくる
ソフトクリーム・お食事処 むさし
甘味処 佐々木屋小次郎商店
山口名物瓦そば 長州屋
腕時計を見ると11時50分。
人のいない瞬間を狙って撮影したわけではない。
観光地や飲食店が被りつつある甚大なコロナ被害が見て取れる