徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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天草へ(その8)

雨上がりの曇り空の下、祗園橋を望む

【案内看板より】
ありし日の御神木”南蛮えのき”

八坂神社の御神木の榎は樹齢三百有余年、樹高約二十メートル、目通りの幹回り三・七メートルで、四周に大きく枝葉を茂らせ、天空高く聳え、天草の乱後のふるさとの歴史を見守り続けてきた銘木であった。
ことに、悲史を秘めた町山口川に架かる名橋「祗園橋」と古社のたたずまいが三位一体となって本渡市中心街のシンボルと仰がれ、”祇園さまの南蛮えのき”として内外より親しまれてきた。
しかるに、長き風雪にたえてきた銘木も、近年老朽化が急進して倒壊の恐れが高まり樹木専門医の調査の結果、悲しい診断が下されたのであった。
かくて、氏子代表数次にわたり相寄り慎重に協議検討した結果、種々の顕彰事業の実施と神事祭典を重ね、遂に、本年七月二十五日、市民多数の見守る中に伐採のやむなきに至ったのである。
ここに惜別の思いを捧げて、ありし日の雄姿を刻み、後世に永く伝えるものである。

平成九年十月吉日
八坂神社 宮司     大野康孝
八坂神社奉賛会会長  井上一男

祗園橋のたもとにある八坂神社前にて
(熊本県天草市船之尾町6−10付近)
国指定重要文化財 祗園橋の石碑がある 

木を模したコンクリート製の柵で囲まれた古い石碑
天宝五年(西暦1834年)の文字が読める

石碑の根本から30cmほどの位置に付けられた☓印が気になる

橋桁を至近で見るため、石畳の通路を歩いて町山口川の川原に降りてみる

川原を歩きやすいように切石が敷かれている

200年近い年月の間、風雨と川の流れに耐えた橋桁の中には、石材に亀裂があるためかステンレス製の太い針金で補強されているもの、5本1組の脚の一部が完全に流されたのか四角い木材で代用されている箇所もある。

かつては異なる用途で用いられていたのか、一部を四角くくり抜かれている石材もあり長年月に渡る補修の苦心が偲ばれる。

町山口川の川原から上流方向を眺める

屋根のデザインに味がある「天草酒販会館」の建物。
いわゆる「昭和」な意匠が周辺の風景と完全に同化している

橋上を歩いて対岸に渡ってみる。
床板の石材も橋桁同様に風化が進んでいる。
新しい石材に交換されたり、目立たないようにコンクリートで補強されている箇所がある。
当然ながら歩行以外の通行は禁止されており、橋の両側は車両の通行が出来ないようにコンクリート製の杭が立てられている。

橋上から川下(本渡港)方面を眺める。

橋を渡りきった対岸にある「祗園橋説明システム」

【説明システム本体の説明文】

スタートスイッチを押してください。
祗園橋の説明と町山口川の歴史を紹介します。

祗園橋 天保3年(1832)年建造
長さ/28.6m 幅/3.3m
石材/砂岩(本渡市下浦産出)
熊本県指定文化財 昭和50年3月24日

ご覧のように装置上部の説明プレート中央にあったスタートスイッチは取れていて、かなり以前から用をなしていないと思われる。

祇園神社の対岸にある案内看板より】

祗園橋 国指定重要文化財(平成9年12月3日指定)

この石橋は、天保3年(1832年)町山口村庄屋大谷健之助が発起し架設したもので、祇園神社の前にあることから、祗園橋と呼ばれています。石造桁橋では日本最大級で、長さ28.61m、幅3.3mあり、45脚の石柱により支えられています。下浦村(現下浦町)石屋の辰右衛門により建造され、地元の砂岩が使用されています。
この付近は、寛永14年(1637年)11月、天草・島原の乱で、天草四郎の率いる一揆勢と富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所です。両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられています。

熊本県(観)

Gion Bridge (designated as national important cultural asset of Japan on Dec.3.1997)

This stone bridge was constructed in 1832,at the suggestion of Kennosuke Otani, the head of Machiyamaguchi Village. The bridge is called "Gion Bridge" because it is located in front of Gion Shrine. One of the largest stone girder bridges in Japan. it is 28.6m long and 3.3m wide, and supported by 45 stone piers, It was constructed by Tatsuemon, a stonewoker of Shimoura Village(present-day Shimoura Town),using local sandstone.

「天草の乱激戦之跡」石碑

川向うに見える青いテントの「クリーニング蝶屋」前の道を画面右から左に進行して祇園神社前にバイクを駐車したが、クルマだと離合はまず無理な道幅であり神社前付近に駐車スペースはない。

橋本徳寿の歌碑前にて

町山口川の
流れせきとめし
殉教者の
むくろ数百千にして
名をばとゞめず

橋本徳寿は古泉千樫(こいずみちかし)に師事した横浜市生まれの歌人
千樫の没後、昭和2年に「青垣」を創刊、編集発行人となり現代歌人協会創立時より理事となる。
昭和41,42年度の宮中歌会始選者であった。

祇園神社の石段を上る途中左手にある「妙見社」

祇園神社鳥居の扁額

祇園神社拝殿

石段を下りながら祗園橋を見下ろす。
石造りの構造物をしばらく眺めていたせいか、もう20年近く前、年明け間もない厳冬の季節にローマ郊外にある古代遺跡群「フォロ・ロマーノ」とその周辺の街区を終日歩き回ったときのことが頭をよぎった。