徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

横倉山の安徳天皇陵その4

杉原神社を後にして正面鳥居をくぐり、遊歩道にそって右手方向に歩いていく

【案内看板より】
天嶮 馬鹿だめし
横倉山の頂上中嶽にあり、安徳天皇を祀る横倉宮が鎮座するその背後の石灰岩は千仭の断崖絶壁をなし戦慄目もくらむ一大嶮所である
普通人では容易に其の突端には近づけない
敢て危険を冒して先端に足を運ぶ者は馬鹿者とされ馬鹿か否かを試す意味から馬鹿試しと呼ぶようになった
山男たちのロッククライミング練習場として二百余米の断崖

安徳天皇御陵墓
横倉宮の西北平坦地にあり天皇潜行中に従臣らと蹴鞠遊びをされし処と伝えられ(よって鞠ヶ奈呂陵墓という)正治二年宝算二十三才で崩じ給いこの地に奉葬、様式は歴代皇陵と同一で県下唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している
明治十六年御陵伝説地指定、昭和三年参考地指定となる

空池の自然公園
奇岩怪岩の石灰岩が群落し恰(あたか)も天然の造園を形造っている

住吉の断崖
数百米の断崖の上には安徳天皇に供奉した中納言兼政祀る住吉神社鎮座、鎖と岩場のスリルに富み晴天には遠く高知市方面まで一望される

石鎚山神社
遠く高知市愛媛県石鎚連峰他、越智町内全域を望む絶景

横倉山内案内図
※画像クリックでオリジナルサイズを表示

安徳天皇陵墓参考地約1km⇒」の看板に脱力しつつさらに歩を進める

近代的な意匠のロッジが見えてきた

【案内看板より】
山小屋使用について

一、届出・許可等はいりません
二、休憩・宿泊等自由に使用してください
三、使用者はノートに記入してください
四、室内は土足禁止です
五、使用後は清掃してください
六、空缶、ちり、残飯等すべてお持ち帰りください
七、火の用心
八、建物の内外にらくがきをしないでください
九、みんなの山小屋を大切にしましょう  
  越智町

内部は綺麗に清掃されている。クルマやバイクで至近まで乗り付けることができない場所にある施設は不心得者にいたずらされる可能性が極めて低い事例のひとつだろう

【ロッジの傍らにある案内看板より】
全国名水百選
安徳水 昭和六〇年三月二十八日 環境省選定

安徳水は、文治元年(一一八五年)屋島の合戦に敗れた平家一門が、安徳帝を擁しこの地に落ち延びられ、平知盛外八〇余名が天の高市(武家屋敷跡)に二五軒の住を構え、都とした祈りに、この泉水を供御水とされたとされている。
また、これより二〇〇年前、横倉山が日本国霊峰四八ヵ山の一つとして有名になった頃、修験者の清め水として使用されたとも伝えられている。

植物学の世界的権威で地元出身者である牧野富太郎博士の歌碑
「森々と 杉の木立の限りなく 神代ながらの横倉の山」

さてもうひと頑張りして先に進む

登りの角度が徐々に増してきた

右 馬酔木(アセビ)ヶ平(平安神社に至る約五〇米)の案内標識

左手に進むと「安徳天皇行在所跡」だが今回は割愛して直進する

ようやく横倉宮の鳥居が見えてきた

やっとたどり着いたと思ったら鳥居の向こうには丸太で作った階段が延々と延びている

息を切らしながら半袖Tシャツ一枚になって急ピッチで登る

横倉宮に到着

【案内看板より】

横倉宮

祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流造りです。
由緒は正治二年(一二〇〇)八月八日、安徳天皇は二十三歳で山上の行宮で亡くなられ、鞠ヶ奈路に葬られた。同年九月八日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。
歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。現在の建物は明治三十年(一八九七)頃の改築で、以前は横倉権現といったが、明治四年に御嶽神社と改め、昭和二十四年(一九四九)十二月二十三日、天皇崩御七五〇年祭のときに横倉宮と改められた。

拝殿右手から横倉宮本殿を望む。ここからさらに裏手に進むと「馬鹿だめし」に出るはずだがいまさら試してみるまでもない

拝殿右手の板塀に貼られた「伝説平家落ちコース」の絵地図

【拝殿前に設置された注意看板より】
注意!
自然と歴史に満ち、古くからの信仰の山である横倉山には、修験者の使った当時の道を活かした起伏のある遊歩道が整備されています。
この森の素晴らしさを楽しんでいたたくためにも、今一度、皆様の現在地及びこれからのルートの再確認をお願いします。
(現在地名称:横倉宮)
佐川警察署・高吾北消防署・越智町

拝殿を背に今登ってきた参道を見下ろす

しばらく引き返して左折すると東屋と案内標識があった

畝傍山(うねびやま)眺望所と安徳天皇御陵参考地は右へ