大崎下島の御手洗地区その1
下蒲刈島の白崎園を出発する頃にはもう雨の心配はなさそうな空模様になってきた
午後3時過ぎに大崎下島の御手洗地区に到着
駐車場の看板裏に積まれたタコツボ。
今や樹脂製が主流のようだ
【案内看板より】
寛文十二年(一六七二)河村瑞軒によって開発された西廻り航路は、天然の良港である御手洗港の発展の基盤をつくりました。即ち東北、北陸から来る北前船が、米、ニシン、昆布などを積んで、この港に入るようになったのです。そのため、御手洗港は、当時、急に活気を呈し、米の御手洗相場がたっていたことからも分かるように、瀬戸内海でも屈指の物資の集散地となったのです。
文政十二年(一八二九)五月二十六日、隣接する千砂子波止(大防波堤)が完成しました。この波止場の鎮守として、住吉神社が勧請され、広島藩の勘定奉行、 筒中極人の世話で広島藩の御用達、大阪の豪商、鴻池が堺の住吉神社の本社をそのまま正写したものを寄進したものです。社殿の建立に際しては、一切が寄進によるものですがその主なものをあげると
- 御神殿 摂津大阪 鴻池 善右衛門
- 同華表 同 上 輪島屋 作兵衛
- 岸の姫松 同 上 海部屋 善治
- 高燈篭 当 町 三笠屋 忠左衛門
- 広前高麗狗 同 上 鞆田 幸七
- 石橋 同 上 今田 愛兵衛
この外小さな燈篭や玉垣は、大阪商人や全国の問屋連中をはじめ遊女の寄進によるものです。
祭神はいわゆる住吉三神(上筒男之神、中筒男之神、底筒男之神)と息長帯比売命(神功皇后)である
住吉神社拝殿
檜皮葺の本殿屋根を守るため本殿の建物すべて大屋根で保護されている
台風等で破損したのか壊れた石灯籠のパーツが本殿裏の一画に集められている。海岸沿いの厳しい環境にあるため風化も激しいだろう
江戸時代の防波堤「千砂子波止」から住吉神社を眺める