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雲居国師生誕地

松山自動車道伊予灘SA(伊予市)からほど近い伊予市上三谷の小高い丘の上にある「雲居国師(うんごこくし)生誕地」へ

雲居国師顕彰碑文

ここ毘沙門堂は、天正十年一月雲居国師が誕生した所である
十五歳のとき 土佐中村の太平寺で髪をそり仏門に入り
京都妙心寺一宙和尚の下で仏道を修めた 松山城加藤嘉明
父子の好遇を受け のち仙台藩伊達政宗の再三の招請に 
ついに応じて松島瑞巌寺中興開山の偉業を遂げた
終生綿衣をまとい 身をもって倹約を衆に示し 人人から生
き仏と敬い慕われた 万治二年八月七十八歳で没し 大悲円
国師の勅号を賜った 国師生誕四百年に際し その大徳を
しのんで顕彰の碑文を録し その跡を後世に伝える

昭和六十一年二月吉日 堀井恭弐選文並びに謹書
表題字 松島瑞巌寺住職 五雲軒老大師書

堂内に安置されている毘沙門天

毘沙門天の足下には平成10年12月17日付の法要参加者による記念写真が

【案内看板より】
雲居国師生誕地

伊予市指定文化財 史跡
昭和六二年二月二四日 指定

雲居国師(うんごこくし)の父は小浜左京といい、土佐中村藩主一条兼定に仕えていた。
 一五八二(天正一〇)年、長宗我部元親に攻められ、重傷を負った兼定道後温泉で湯治することになった。
兼定の乳母であった左京の妻は、我堂で体を休めているときに産気づき一月二五日正午立派な男子を生んだ。
この子が後に雲居国師となる。
 雲居国師は青年時代から天下の名僧・傑僧を訪ねて諸国行脚修行の旅を続けた。その途中一六二一(元和七)年、天徳寺(松山市)の南源師を訪ねた。
その話を聞いた松山城加藤嘉明、明成父子はさっそく天徳寺を訪ね、その徳の高いことに感銘を深くし、雲居国師のために宝樹寺を創建した。
 一六三六(寛永一五)年、五五歳のとき仙台藩伊達政宗からの再三の招請により松島瑞巌寺の第九九世の住職となり、中興の大業を成し遂げる。
 師は七八歳で亡くなられたが、権力者や庶民に分け隔てなく接し、生涯木綿の僧衣をまとって倹約を示し、人々から生き仏と慕われた。

伊予市教育委員会

蛇足だが、伊予市のウェブページ内にある雲居国師生誕地の解説文には雲居国師の父親の名が、高名なSF作家と同姓の「小松左京」と読みがな付きで記されている。

落ち葉に覆われた裏手の山道を降りると松山自動車道の側道に続く道に出る

曇り空の下で桜を眺める。
この付近は七分咲きというところか