「平戸歴史の道」界隈
慶長18年(1613年)からオランダとの貿易競争に敗れて撤退した元和9年(1623年)までの間、イギリス東インド会社が平戸に設置したイギリス商館の商館長(カピタン)を努めた。
コックス自筆の公務日記である「イギリス商館長日記」は、歴史資料として高く評価されている。
浅田實(みのる)著
「東インド会社 巨大商業資本の盛衰」より
序文「東方への誘惑」全文を抜粋
飽食の時代といわれる今日の日本では考えられないことであるが、ひと昔前までは、西欧は物質豊かな先進国なのに日本を含めたアジアの国ぐには皆貧しい、何とか西欧の国ぐにに追いつきたい、あやかりたい、そんな思いにひたる人が多かった。時代はさかのぼるし所もまったく逆になるのだけれども、中世のヨーロッパの人びとは、これと似たような感情をいだいていたに違いない。
どこか東方に香ぐわしい「楽園」がある。かなたに「エル・ドラード(黄金の国)」がある。緑したたる沃野(よくや)と芳香ただようえもいわれぬパラダイスがある。「香辛料」の群生しているところに行って胡椒、シナモンなどを手に入れたい。このような憧憬、このような欲求が、西欧の人びとを大航海の冒険にかりたてることとなった。
それまでヨーロッパには、ジャガイモもトウモロコシもトマトもなかった。コーヒーも紅茶も知らなかった。甘いものも蜂蜜しかなかった。砂糖はまだなかった。食生活にうるおいをもたらせるものとしては胡椒や香料がしられていたが、すごく値段が高くて一般庶民にはまったく手が出なかった。このような時代に、東方の「楽園」に赴いて豊かな物資を手にしたいという願望から大航海がはじまり、そこから商業革命が生まれた。
産業革命の結果、われわれはそれまでなったくなかった品物をつぎつぎと工業的につくり出すことができたのだけれども、これと同じようにヨーロッパの人びとは、それまでまったく知らなかった品物を商業革命によって商業的に入手することができ、しかも大量に価格もしだいに安く買い入れることができるようになった。それによって人びとの生活は向上し、うるおい豊かなものになった。
そのような商業革命の時代を動かしたものが、ここにとりあげた「東インド会社」にほかならない。ヨーロッパとアジアとを結びつけた東インド貿易には、ポルトガル・オランダ・フランス・イギリス等数多くの国ぐにが参加したが、もっとも重要な役割を果たしたのはイギリスであった。このため「イギリス東インド会社」をここでの主な課題とするが、これは営利会社であったこの会社こそ、商業資本家の代表的企業であったからである。ひところは産業資本家ないしは工業資本家こそが、時代の担い手であり歴史の形成者であるかの如くいわれてきたが、脱工業化時代といわれる今日、今一度商業資本家の歩んできた道をふりかえってみる必要があるのではないか。この点でこれはきわめて現代的な課題だということができる。
いったい「イギリス東インド会社」は、普通の貿易、商業取引を行なう営利会社にとどまっていなかった。いや営利会社ではあったのだが、営利のためには他のいかなることをも情け容赦なく平気でやってのける大会社になった。そうなることによって、世界で最初の資本主義をイギリス本国にもたらすと同時に、わが国の一一倍以上ものインド帝国を植民地として支配する先兵の役割をも果たしたのであった。
【碑文より】
平戸の歌
紅のつつじは「きりしま」「ひらど」
昔なつかし カピタン様の
国へたよりの 押し花が
海のむこうの じゃがたら国の
土にこぼれて咲いたげな
ほんと咲いたげな
平戸出身で日本作詞家協会会長、日本文芸家協会会長、日本訳詩家協会会長、日本詩人連盟相談役等を歴任した昭和歌謡の大作詞家、藤浦洸のモニュメント
築200年の豪商の蔵を改装オープンした
平戸海道諸国銘品館「婆娑羅」
昼食は平戸ちゃんぽんの垂れ幕に誘われて「もりとう食堂」へ
- 作者: 浅田實
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