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草戸千軒ミュージアム

真備町からの帰路、草戸千軒遺跡の展示物を見物するため、福山市広島県立歴史博物館へ

福山城天守と公園の一角を占める赤いオブジェ

オブジェの奥に見えるのが「ふくやま美術館」の建物

広島県立歴史博物館[草戸千軒ミュージアム]正面入口

エントランスホールの窓口にて、一般¥290の入場料を支払う
※企画展・特別展は別料金

長く広い石段を2階の常設展示室に向かって上っていく

最初の展示スペースである通史展示室「瀬戸内の歴史をたどる」は、大半の展示物が複製だが、カメラ撮影不可のため画像はない。

人相風体に怪しさを感じたのか、さりげない雰囲気を装いつつも油断なく場所を移動しながらこちらを監視する学芸員のお姉さんの視線を感じつつ、次の展示スペース草戸千軒Ⅰ展示室「よみがえる草戸千軒」に移動。

【案内パネルより】

福山の市街地西側を流れる芦田川河口近くの川底に埋もれた中世(鎌倉〜室町時代)の代表的な集落跡である。この展示は町の一角を実物大で再現したもので、室町時代前期(南北朝時代)のある初夏の黄昏時(たそがれどき)に設定している。

Kusado Sengen was typical of a medieval community during Kamakura and Muromachi periods,the 13th〜16th centuries,
It was buried under the mouth of the River Ashida which runs through West Fukuyama, This exhibition(set in the early Muromachi period) shows part ofthe town at twilight in May,

【展示解説シートより】

草戸千軒の再現

草戸千軒町遺跡は、福山市街地の西郊、朱塗りの堂塔も美しい国明王院(中世には常福寺と呼ばれていた)の前を流れる芦田川の川底に埋もれたわが国を代表する中世の集落跡です。長年にわたる発掘調査によって、中世の瀬戸内に栄えた港町・市場町の様子が解明され、民衆の生活文化が鮮やかによみがえりました。


【案内パネルより】

「草戸千軒町遺跡出土品」は国の重要文化財に指定されています!!
(平成16年6月8日指定)

中世の民衆生活を物語る資料群であることが評価されました。
 指定資料は2,930点で、その内訳は次の通りです。

土器・土製品  1,400点
木製品      632点
墨書木製品    193点
漆器        79点
石製品      310点
金属製品     238点
骨角製品      76点
繊維製品      2点

「草戸千軒ミュージアム」を謳うだけあって実物大復元の出来はなかなかのものだ

【常設展示室資料ガイドより】

橋を渡ると市場があります。船着き場では、米俵、壺、擂鉢(すりばち)などが荷揚げされ、商品を一時的に保管しておく、差し掛け小屋があります。天秤棒でかついできた油売りの用具もみえます。左側には大甕(おおがめ)や壺をはじめ、魚、貝、塩、海藻、鳥を売っている小屋もあります。隣では穀物や野菜を売っています。通りの右手手前が塗師屋(ぬしや)、奥が足駄屋(あしだや)、通りの左側が鍛冶屋で、通りの向こうにはお堂が見えます。左の家の近くには共同井戸があります。

手前が市場の建物、続いて鍛冶屋の家、その奥が御堂と続いている

【展示解説シートより】

穀物・野菜売り

穀物 赤米(アカマイ)
   麦
   大豆(ダイズ)
   小豆(アズキ)

野菜 蕪(カブ
   牛蒡(ゴボウ)
   里芋(サトイモ)
   山芋(ヤマイモ)
   葱(ネギ)
   三つ葉(ミツバ)

果物 梅(ウメ)
   
その他 藁草履(わらぞうり) 筵(ムシロ)

【展示解説シートより】

魚具売り

鮮魚 鯛(タイ)
   鱸(スズキ)
   鰯(イワシ)

干物 鰯(イワシ)
   鮑(アワビ)
   海鼠(ナマコ)
   
貝類 浅利(アサリ)
   蜆(シジミ)

その他 雉(キジ) 山鳥(ヤマドリ)

その他の海産物 ワカメ 塩

【展示解説シートより】

米袋や、商品である備前焼の壺・すり鉢を運搬してきた船が荷を下ろしているところ。この船は遺跡から出土した舟形をもとに、中世の絵巻物に描かれた刳船(くりぶね)を参考にした。

船着場の様子

荷揚げされた米俵と壺、油売の用具一式他

物心つくかつかない頃、高知県の山奥(江川崎辺りか)でこんな風景を見たことがあるような無いような…

【常設展示室資料ガイドより】

町並の出入り口には、門柱に疫病よけの呪符がくくり付けられており、ここを出るとお堂があります。このお堂は町の人たちが協力して建てたもので、中の地蔵菩薩坐像は人々から篤い信仰を得ています。建てて30年たち、傷みが激しいため、大工がくり縁や正面の扉を補修しています。藁葺き屋根も傷みが激しく屋根職人が葺き替え中です。お堂の隣は墓地で供養するための石塔が立てられ、木で作った卒塔婆もみえます。

【常設展示室資料ガイドより】

草戸千軒町遺跡からは人骨を埋葬した土坑墓(どこうぼ)・木棺墓(もっかんぼ)・桶棺墓(おけかんぼ)がみつかり、墓に伴う五輪塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの石塔類や木製の卒塔婆も出土し、あちらこちらに墓があったことがわかりました。
 このほか夫婦の戒名を記した位牌、病などの災いを除くために大般若経を転読した御札、羅漢と思われる人物像の頭部、神仏習合の象徴である懸仏(かけぼとけ)、荒神不動明王など神仏の名号を記した墨書土器などが出土しています。これらの資料から、中世民衆の信仰の一端がうかがえます。

共同井戸と竹竿に干された洗濯物

【常設展示室資料ガイドより】

塗師屋(ぬしや)

ここは、漆の器をつくっている職人の家で、夫婦二人で住んでいます。壁はホコリを防ぐため、土壁作りです。今、ちょうど夫が漆椀の絵付けをしているところです。後ろの部屋は、塗り終えた漆器を乾かす所で、製作途中の漆碗や漆皿がみえます。食事は、このころから民衆の間ではじめられた精進料理が用意されています。

並べられた漆器が見える塗師屋(ぬしや)宅の外観。
奥の足駄屋(あしだや)宅とは二軒長屋で繋がっている

山奥の集落を通過する際など、こんな建物が牛舎に転用されていたのを、ついこの間まで見かけていた気がする。

塗師屋夫婦の夕餉(ゆうげ)のメニュー

麦と米を混ぜたご飯に、そうめん、高野豆腐、蕗(ふき)のおひたし、韮(にら)とワカメのすまし汁

足駄屋宅は夫婦と息子の三人暮らし。
父親は下駄に鼻緒の孔をあけており、息子は下駄の台を製作している設定

【常設展示室資料ガイドより】

足駄(あしだ)づくり

台と歯を一木で作った連歯下駄(れんしげた)や、歯を別の木で作って台にはめ込んだ差歯下駄(さしばげた)など様々な種類の下駄がみられるほか、製作途中と思われるものも出土しています。ヒノキ、サワラ、スギなどの原材料を鋸や鑿(のみ)などの道具で仕上げ、焼けた火箸で鼻緒の孔を開けています。

内部の作りも非常にリアル

足駄屋家族の夕餉のメニュー

麦と米を混ぜたご飯に、鯊(ハゼ)を焼いたもの、ササゲの塩漬け、シジミと芹(セリ)のすまし汁

足駄屋宅の向かいにある鍛冶屋宅の内部。
家族構成は夫婦と幼子で通いの職人がいる。
仕事場と居住部にわかれており、境には仕事場が神聖なことを示すしめ縄が張られている。

鍛冶屋宅の夕餉のメニューはめでたい日の設定になっていて、米だけのご飯、家族それぞれに25cmほどの鯛(当然のことながら天然モノ)の塩焼き、昆布・牛蒡(ゴボウ)・芋蔓(イモヅル)の煮しめ、蛸(タコ)のなます、蛤(ハマグリ)と三つ葉のすまし汁と豪華。

撮影画像はひどいピンぼけのため割愛。

竹?格子が入った鍛冶屋宅の窓の様子

塗師屋宅前から入口方向を眺める。
左手奥が船着き場、右手奥が市場になる

草戸千軒Ⅱ展示室「出土品はかたる」に移動

【常設展示室資料ガイドより】

井戸

解説は壁面に、資料は中央に展示しています。展示している井戸枠は全て地下に埋められていたものです。当時の地表面は、これらの井戸枠から50cm程上にあったものと考えられています。
 井戸枠に使われた材料には木材や石・陶器などがありますが、大部分は木材のものです。
 これらの井戸には、ほぼ同じ場所で作り替えられたものもあります。絵巻物などにみられるような、共同井戸も多かったと考えられます。

陶器型井戸

大きな甕と曲物(まげもの)を組み合わせた類例の少ない井戸です。上部と下部に備前と亀山の底を割り取った大
甕を据え、その間を曲物で繋いでいます。井戸を作る穴は、大甕がちょうど収まる小さなものでした。鎌倉時代後半の井戸です。

【常設展示室資料ガイドより抜粋】

草戸千軒にかんする記録は非常に少ないのですが、『西大寺諸国末寺帳(さいだいじしょこくまつじちょう)』『太平記』などの中世の書物や、『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』といった中世の資料を採録した近世の書物に、「クサツ」「クサイツ」「クサイチ」などと記されています。
 畿内や中国・朝鮮とも交易していた鞆や尾道とは異なり、この地域の中核的な港町・市場町として栄え、戦時における物資の補給地としての役割も担っていました。

遺構の変遷

町の変遷は、大きく四つの時期に分けられます。
 最も古い時期の遺構は鎌倉時代後半のものです。この時期の遺構は多くありませんが、かつての常福寺(現在の明王院)に近い、中洲の中央部西寄りで建物・井戸・溝を発見しています。
 室町時代前半には建物や井戸などの遺構の数が急激に増え、調査区の全域に町が広がっています。とくに調査区の南側は柵によって短冊状に区画されており、「ウナギの寝床」といわれる屋敷地の始まりがみられます。
 室町時代後半には、大規模な町の作り直しが行われました。調査区の北側から中央にかけて石敷道路や柵・溝などで区画した町割がみられます。この柵囲いは、博物館の4倍余りの広さになる、東西およそ100m、南北およそ140mの大規模なものです。内部は細かく区画され、それぞれの区画には門がついています。これに対し、南側では一辺が80mにもなる方形の屋敷地を囲む堀があります。
 室町時代終わり頃から江戸時代前期にかけては、井戸、小規模な池、水田への用水施設などがわずかにみられるだけで、町が急激に衰退していったことがわかります。

【草戸千軒町遺跡パンフより】

集落の変遷  

江戸時代には「草戸千軒」と呼ばれていた集落ですが、本来の名前は「草津(くさいづ)で、鎌倉時代後期の13世紀中頃に成立したことが明らかになりました。集落の西側、現在の福山市瀬戸町を中心とする地域には、かつて長和荘(ながわのしょう)という皇室領の荘園が存在していました。
 鎌倉時代には、鎌倉幕府御家人である長井氏が地頭として現地で支配力を拡大しており、「草津」はその活動拠点として成立した港町であったと考えられます。「草津」は、鎌倉時代末期の14世紀初頭頃には港町として急速に発展しましたが、鎌倉幕府滅亡後の14世紀中頃以降には衰退したらしく、15世紀に入る頃までの動向はよくわからなくなります。
 室町時代後期の15世紀中頃になると集落の再開発が進められ、経済拠点としての機能が復活したことが確認できますが、15世紀後半には多くの施設が廃絶しており、応仁文明の乱(1467〜1477)による社会の混乱がこの集落にもおよんだものと考えられます。やがて、15世紀末になると集落の南部に一辺100mほどの方形の濠(ほり)に囲まれた大規模な館が出現し、集落の領主の支配拠点として利用されていたことがうかがえます。
 しかし、この館も16世紀初頭には廃絶しており、これによって「草津」は港町としての役割を終え、急速に衰退したようです。
 15世紀以降の集落の動向に関与したと考えられるのが、備後守護山名氏の配下で活動した渡邊氏という領主です。渡邊氏は16世紀初頭には「山田」(福山市熊野町)に拠点を移しており、これが「草津」の終焉を示していると考えられます。
 かつては、江戸時代に書かれた記録をもとに「草戸千軒」は寛文13年(1673)の洪水によって滅亡したと考えられていましたが、発掘調査とその後の研究により、寛文13年の洪水よりはるか以前に、政治的・社会的な要因により集落が衰退したことが明らかになっています。

草戸千軒町遺跡全景(1986年当時)

発掘された中洲は、掘削され現在は残っていない