徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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赤間神宮

例年10月に取得している休暇を前倒しして、今週月曜から昨日10日水曜までの3日間で山口県の海岸沿いをぐるりと巡る旅に出かけた。

8日月曜の早朝にしまなみ海道経由で尾道に到着。
国道2号〜国道190号で宇部市でのヤボ用を済ませたあと、下関市に向かって再び190号線を進む。
午後1時過ぎに最初の目的地下関市の「赤間神宮」に到着した。

国道9号線を挟んだ向かい側にある赤間神宮駐車場より正面鳥居と拝殿を望む

【案内看板より】

海峡守護『碇』の由来

 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
 今を去る八百年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、龍宮城に旅立たれました。
 それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。
 このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、海峡の平安を祈るものであります。

昭和六十年五月二日
源平八百年祭を記念して
寄進 下関海洋少年団

石灯籠に挟まれた中央に『碇』が鎮座している

【案内看板より】

謡曲「碇潜(いかりかつぎ)」と壇ノ浦

 謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
 壇ノ浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍(いくさ)物語を所望する。
 漁翁(実は平知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り跡の弔いを願う。
 旅僧の回向(えこう)に導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門悉く(ことごとく)入水するまでの経過と、自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。とういう構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇ノ浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に想いを馳せる海岸である。

謡曲史跡保存会

国道を横断し赤間神宮の境内を目指して歩く。
子供の頃に読んだ絵本「浦島太郎」に出てきた竜宮城そのままの水天門を仰ぎ見ながら石段を上る

石段を登り切った正面にある「太鼓楼」に飾られた大型絵馬

【境内の案内看板より】

赤間神宮

御祭神 第八十一代 安徳天皇
御祭日 五月三日 先帝祭り  十月七日 例大祭

寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇ノ浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰き御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

水天門記

 惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は卆先多額の御寄進に加へて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋、吾国未曾有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の
  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて竜宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日 畏くも昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
  みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり

太鼓楼記

水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長清原梅義氏は本宮崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日旧元旦を期して見事に竣成す 蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうろうと関門海峡をわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ

水天門 掲額の記

神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁親王殿下の御染筆をたまわり平成十七年五月三日御祭神と仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。

御神宝類

重要文化財   平家物語長門本   全二十冊
重要文化財   赤間神宮文書    全十巻一冊
山口県文化財  安徳天皇縁起絵図  全八幅
            平家一門画像    全十幅
            源平合戦図屏風   一双ほか

宝物殿にて適時公開す

水天門の奥に拝殿が見える

太鼓楼を裏手から見上げる

【碑文より】

八咫鏡発掘並奉献者

春名義雄殿 頌徳碑

維時昭和三十三年四月七日赤間神宮に畏くも天皇皇后両陛下行幸啓御参拝の事あり是より恰かも百日目の七月十三日岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は予ねて郷土史研究家として知られ地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一つ八咫鏡埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや正規の手続きを経て土地の伝説たりしを現実に発掘するに至る春名義雄氏は此年九月十三日安徳天皇御入水の地下関市壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等紆余曲折すること二十有余年即ち昭和五十三年其の一切を竟り来る昭和六十年五月安徳天皇八百年先帝大祭を迎うるに当たり斯くも生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らかにするものなり

昭和五十九年十二月吉日
赤間神宮宮司 水野久直 記

第十代崇神天皇より第八十一代安徳天皇まで千二百七十六年間歴代皇位継承三種の神器 八咫鏡奉鎭石碑

【案内看板より】

この獅子一対は、中国大連の花崗岩を現地彫上げ、大連神社全国氏子有志の手によって運び、平成七年十月一日赤間神宮大前に奉納されたものです。神前に向って右側の玉を手にする方が父獅子、左側の子獅子を押さえている方が母獅子で、口中の玉は石彫の過程で仕上げており、あとで入れたものではありません。頭から台座まで見事な出来栄えの獅子であると申せましょう。

こちらが父獅子。口中の玉は触るとコロコロ動く。

赤間神宮拝殿

【案内看板より】

日本西門鎮守八幡宮御由緒記

御祭神 八幡大神 神功皇后
御祭日 二月三日 節分祭 七月二十九日 夏越祭 十月十五日 例大祭

今から約千二百年のむかし貞観元年行教和尚が宇佐から京都の岩清水へ御分霊を勧請される途次関門の風光絶佳なる当地に日本西門の守り神として創建せられた鎮守八幡宮である。
それより鎌倉幕府を始め南北朝室町時代から江戸時代まで大内毛利両氏など多くの戦国大名の尊崇を集めた。昭和二十年七月二日大東亜大戦の禍を蒙り社殿は全焼したが養治小学校奉安殿を移築して仮本殿とし御神体安泰を期すを得たるも氏子の熱誠によって昭和二十九・同三十七年の両度にわたる戦災復興造営事業を中心に本殿拝殿などめでたく竣工、宇佐本宮の例に倣い朱色も鮮かに完成された。神意愈々発揚されているものである。

平成十六年甲申十月
御鎮座壱千百四十五年記念 宮司謹誌

日本西門鎮守八幡宮

日本西門鎮守八幡宮を背にして関門海峡方面を望む

赤間神宮の正面左手にある安徳天皇阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ)
宮内庁により管理されている。

【案内看板より】

此処は人皇第八十一代の安徳天皇阿弥陀寺陵です
今から八百年前源平の合戦で壇の浦に御入水の後
御尊体を奉じて御廟所が造営され明治維新を経て
現在の御陵となりました
どうぞ御参拝下さいませ

耳なし芳一」の舞台でもある安徳天皇阿彌陀寺陵。

小泉八雲著「怪談」に収められた「耳無芳一の話」の原典とされる一夕散人(いっせきさんじん)著「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」

参拝客で賑わう赤間神宮に比し、こちらは真昼の静寂に包まれていた

付近を一通り見物した後、境内のトイレで用を足すため再び赤間神宮に向かう。
日本西門鎮守八幡宮の前を通り過ぎ龍宮殿脇の石段を降りながら国道を隔てた正面を見ると、建物と建物の間に石灯籠が立っているのが眼についた。

文政七年(1824年)の文字が確認できる鳥居越しに岸壁に立つ石灯籠を確認

ビルに挟まれた石燈篭付近は昼間でも薄暗い。
帰宅後調べてみると一階に和風レストラン「ふよう亭」が入る左側の建物がある場所は、慶長年間ここに存在していた船宿「伊勢屋」の跡らしく、剣豪宮本武蔵はここから巌流島に出陣したとの伝説がある

「ふよう亭」裏から関門橋を望む

石灯籠の間から対岸の門司港付近を眺める

景色を堪能したのでそろそろ先に進むことにする