徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

小島(おしま)にてその4

司令塔跡から急な石段を降りてレンガ造りの将校地下室跡にf:id:YBR125K:20201205133847j:plain

内部に入って入口付近を振り返るf:id:YBR125K:20201205134108j:plain

照明器具をぶら下げたらしいフックが残っているf:id:YBR125K:20201205134258j:plain

奥のレンガ壁にへばりついたトカゲf:id:YBR125K:20201205135535j:plain

一旦外に出て、今度は隣の地下兵舎跡にf:id:YBR125K:20201205134422j:plain

入ってみたが、内部は将校地下室跡と大差ないf:id:YBR125K:20201205134642j:plain

ここの天井にも伝声管がf:id:YBR125K:20201205134925j:plain

こんな具合に3つの兵舎が繋がっているf:id:YBR125K:20201205135401j:plain

一番奥の兵舎に繋がる連結通路の天井で見つけたコウモリ。片足だけで器用にぶら下がっているf:id:YBR125K:20201205135913j:plain

一番奥の兵舎跡の様子。ここを出て左に進むと司令塔跡につながる通路があるがf:id:YBR125K:20201205140133j:plain

立木が倒れて通行禁止になっていたf:id:YBR125K:20201205140421j:plain

将校地下室跡の向かいに位置する浄化装置跡f:id:YBR125K:20201205140749j:plain

 

小島(おしま)にてその3

【案内看板より】

南部砲台跡 Southern battery remains

この南部砲台は、小島の中で一番南側の砲台で規模も小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する配置にあります。

当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジア侵攻に対して、国内の沿岸に防衛態勢として要塞の配備を進めました。
石垣の石は、当時1個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島要塞の全構築費用は、当時の金で30万円であったといわれています。
砲台の設計図は、陸軍工兵大佐上原勇作(後の上原元帥)によって作成されました。整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900)に終わったとされています。
大砲の据え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地域住民にも守秘を強いていました。
 南部砲台跡には、竣工当時は軽砲(12cm加農砲)2門が備え付けられました。現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみであります。f:id:YBR125K:20201204205434j:plain

地下室跡f:id:YBR125K:20201204205621j:plain

内部に入ってみるf:id:YBR125K:20201204205730j:plain

外部と会話するために壁面に穿たれた連絡孔f:id:YBR125K:20201204205948j:plain

かつて12cmカノン砲が据え付けられていた砲座跡f:id:YBR125K:20201204210212j:plain

 午後1時を過ぎたので、この場所に座って今治市内で買ったおにぎりを手早く片付けたあと、島の頂上部に向ってまた歩きだすf:id:YBR125K:20201204211511j:plain

中部・北部砲台跡の道しるべf:id:YBR125K:20201204211731j:plain

付近に動物の気配を感じて立ち止まり、しばらく息を殺し耳をすましてみるが何も聞こえないf:id:YBR125K:20201204212145j:plain

今治市街方面を眺めるf:id:YBR125K:20201204212350j:plain

中部砲台跡が見えてきたf:id:YBR125K:20201204212453j:plain

中部砲台跡配置図f:id:YBR125K:20201204212554j:plain

【案内看板より】

中部砲台跡 Central battery remains

 小島の芸予要塞の中核をなす中部砲台には、この要塞の主砲である28cm榴弾砲6門が配備されていたほか、地下室や井戸、井戸水の浄化装置などが造られ、山頂には指令台が設けられていました。
 28cm榴弾砲は、角度をつけて発射した弾が放物線を描いて飛んでいく大砲で、海上からは見えない構造となっています。
 小島の要塞は、この場所で実戦に使われることはありませんでしたが、明治37年(1904)の日露戦争時には、中部砲台の榴弾砲の2門が旅順に運ばれ、旅順攻略に活躍したと言われています。
 現在では榴弾砲の砲座跡が残るのみでありますが、赤レンガ等で築かれた施設とともに貴重な遺構であり、当時の緊迫した様子を知ることができます。
 砲座跡奥の階段を山頂へ上がった指令台跡からは来島海峡のすばらしい眺望を満喫することができます。f:id:YBR125K:20201204212839j:plain

地下室跡f:id:YBR125K:20201204213004j:plain

司令塔跡への道しるべf:id:YBR125K:20201204213208j:plain

山頂の司令塔に続く横幅の狭い急角度の石段を登るf:id:YBR125K:20201204213350j:plain

あと一息で頂上だf:id:YBR125K:20201204213530j:plain

頂上手前に設けられた司令室の入口f:id:YBR125K:20201204213738j:plain

頂上にいる将兵に命令するための伝声管f:id:YBR125K:20201204213927j:plain

司令塔跡f:id:YBR125K:20201204214152j:plain

【案内看板より】

瀬戸内しまなみ海道・世界初の三連吊橋「来島海峡大橋」が架かるこの海峡は、来島村上水軍の根拠地として、また、瀬戸内随一の海の難所として知られてきた。鳴門海峡関門海峡と並ぶ日本三大急潮は、ときには高低差4メートル、最強10ノットにも達し、狭く4つに分かれた水道に無数の渦潮を見ることができる。春から夏にかけ発生する濃霧も海難事故多発の原因となり魔の海峡とよばれてきた。1日1000隻以上の船舶が航行するこの海峡の中水道と西水道は国際航路に指定されている。中水道は潮の流れどおりに、西水道は潮の流れに逆らって、交互に一方通行となる世界でもここだけのルールがある。f:id:YBR125K:20201204214852j:plain

しばしの間眺望を楽しんだあと、来た道を引き返すf:id:YBR125K:20201204215042j:plain

f:id:YBR125K:20201205132027j:plain













 

小島(おしま)にてその2

【案内看板より】

 この小島に残る貴重な史跡『芸予要塞跡』は、明治中期日露戦争当時に築かれたもので28センチ砲のあった砲台跡、展望司令塔跡、赤レンガの地下兵舎跡、弾薬庫跡などが島の各所に点在していて、歴史的な近代化遺産として貴重な史跡といえます。
 遊歩道は、約1.8kmで椿の並木道になっており、海峡の景色を眺めながら歴史散歩を楽しんでください。f:id:YBR125K:20201203210259j:plain

港にいる釣り客2名の他に観光客は無し。

人混み嫌いには最適の場所だ

 

【案内看板より】

28cm榴弾砲

 明治35(1902)年帝政ロシアの侵攻の備え、旧日本陸軍広島県(安芸)竹原市大久野島愛媛県(伊予)の小島に芸予要塞を築きました。
 小島には、南部・中部・北部の3か所に砲台が築かれ、中部砲台に設置された28cm榴弾砲6門をはじめ、加農砲(カノン砲)、速射砲などが備えられていました。
 28cm榴弾砲は、明治20年に海岸防御の主砲とされ、大阪砲兵工廠で造られています。
 明治37(1904)年2月に日露戦争が勃発し、国内の海岸要塞から28cm榴弾砲が旅順等に送られました。小島から送られた6門のうちの2門が、旅順要塞攻略に用いられたとされています。
 芸予要塞は、大正13(1924)年に廃止されたのち、当時の波止浜町(現今治市)に払い下げ保存が図られたことから、要塞としての実質的な期間が短く、結果として、全国的に見ても日露戦争前の要塞の状況を今日まで良く残しています。
 ここに設置しています榴弾砲のレプリカは、平成21(2009)年から平成23(2011)年にかけて放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の撮影のため、当時の資料をもとに忠実に製作されたものです。松山市が譲り受けたのち、ご厚意により今治市に頂き、ゆかりの地、小島に設置いたしました。

                    平成25年
                    今治市f:id:YBR125K:20201203210446j:plain

f:id:YBR125K:20201203210551j:plain

至近で見ると砲身のハリボテ感が半端ないf:id:YBR125K:20201203210647j:plain

案内看板にしたがい遺構を目指して進むf:id:YBR125K:20201203212004j:plain

瀬戸内海国立公園小島』f:id:YBR125K:20201203212130j:plain

こんな感じの遊歩道をf:id:YBR125K:20201203212230j:plain

蜘蛛の巣を振り払いながら進んで行くとf:id:YBR125K:20201203212330j:plain

発電所跡に到着f:id:YBR125K:20201203212618j:plain

煉瓦造りのモダンな建物だf:id:YBR125K:20201203213040j:plain

内部には何も残っていないf:id:YBR125K:20201203213243j:plain

左の壁面には何か長物を引っ掛けた2ヶ所のフックが残るf:id:YBR125K:20201203213327j:plain

 発電所跡の敷地に隣接する住宅廃墟f:id:YBR125K:20201203220505j:plain

内部の様子f:id:YBR125K:20201203220644j:plain

f:id:YBR125K:20201203221046j:plain

むしり取られた電気メーターの庇f:id:YBR125K:20201203220955j:plain

30年ほど前のHONDA・PAL50が放置されていたf:id:YBR125K:20201203221232j:plain

内部に何もない発電所跡よりつい熱心に見てしまいがちなのを戒めつつ廃住宅を後にする。

発電所跡付近から来島海峡大橋を望むf:id:YBR125K:20201203221734j:plain

 

小島(おしま)にてその1

芸予要塞の島『小島』に渡るため、久し振りに波止浜港にやってきたf:id:YBR125K:20201202203953j:plain

波止浜港の対岸には今治造船のドックがあり、建造中の新造船や修理中の大型貨物船(パナマ船籍が多い)が係留されているf:id:YBR125K:20201202205619j:plain

12時45分の出港時間までにはまだ15分ほどあるf:id:YBR125K:20201202205858j:plain

近年、ひたすら雨に泣かされていたが、今年は不思議なほど天候に恵まれている。

今日も雲ひとつない素晴らしい快晴で絶好の観光日和だf:id:YBR125K:20201202210251j:plain

出港時刻になり、ディーゼルエンジンの鼓動が大きくなる。小島までは約10分の船旅だf:id:YBR125K:20201202211111j:plain

出港から約5分で来島港に到着f:id:YBR125K:20201202211532j:plain

着岸するやいなや数名の釣り客を下ろし、慌ただしく小島に向って出港f:id:YBR125K:20201202211829j:plain

小島の埠頭の向こうに来島海峡大橋が見えるf:id:YBR125K:20201202212326j:plain

自身のみを降ろした船はあっという間に埠頭を離れたf:id:YBR125K:20201202212549j:plain

 

伊保田港

夕方6時前に伊保田港に到着f:id:YBR125K:20201127204306j:plain

乗船手続きをして埠頭で待っていると、とうとうイヤなものが落ちてきた。慌てて屋根のある場所まで移動したが、ほんの2~3分で止んだf:id:YBR125K:20201127204612j:plain

日がとっぷりと暮れ、照明灯に照らされた緑色の海面f:id:YBR125K:20201127205408j:plain

定刻通りにやってきたフェリーの最前列に駐車。

外国人夫婦が乗る隣のクルマは米軍岩国基地の軍属専用ナンバーだったf:id:YBR125K:20201127205014j:plain

三津浜港の灯りが見えてきたf:id:YBR125K:20201127205919j:plain

結局今回の走行距離も例年と大差ない782kmだったが、帰宅するまで一度も雨に遭わなかったお陰で疲労感はかなり少なく、ここ数年間で一番ラクな旅だった。

運用開始から丸10年を超えたYBR125Kの走行距離は80,000Kmを超えた

陸奥記念館にて

本州と周防大島を繋ぐ大島大橋
2018年10月、貨物船が橋梁に衝突して水道管他の設備が破壊されたf:id:YBR125K:20201126215627j:plain

19時10分の船にはまだかなり余裕がある。

陸奥記念館の閉館時間には間に合いそうにないが、日が暮れるまでには砲塔他の野外展示は見ることができそうだf:id:YBR125K:20201126220134j:plain

午後5時過ぎに陸奥記念館に到着f:id:YBR125K:20201126222815j:plain

 【案内看板より】

予科練甲飛十一期生戦没者慰霊「若鷲の碑」

 予科練とは海軍飛行予科練修生の略称なり
甲飛十一期生は昭和十七年十月一日全国より厳選され旧制中学(一六、七才)より五八五名土浦海軍航空隊に入隊す。
 昭和十八年六月八日艦隊艦務実習の為、土浦航空隊より派遣の同期生一同は戦艦陸奥長門、扶桑に分かれて乗船、陸奥に乗艦せる同期生一三五名中一ニ四名が陸奥と運命を共にする。
 残る同期生一同は予科練卒業後各戦斗航空隊に配属となり比島台湾南洋沖縄本土防衛の各航空戦及び神風特別攻撃隊員として航空戦の主力として終戦までにニ三七名が戦死することに至って同期生のほぼ三分のニに当る計三六一名が散華する。
 昭和五十三年六月八日生存同期生及び遺族により戦没同期生の鎮魂と恒久平和を祈念しこの緑の地に「若鷹の碑」を建立す。
 生存者(戦後死亡十一名を含む)の氏名も碑に刻んでありますが、いずれ他界したらその魂はこの碑に戦没同期生と共に眠りたいとの念願から同期生全員に氏名を刻んであります。f:id:YBR125K:20201126224339j:plain

f:id:YBR125K:20201126224543j:plain

f:id:YBR125K:20201126224615j:plain

f:id:YBR125K:20201126224719j:plain

 

f:id:YBR125K:20201126224814j:plain

f:id:YBR125K:20201126224856j:plain

f:id:YBR125K:20201126225041j:plain

沈没地点を指し示す矢印f:id:YBR125K:20201126230246j:plain

陸奥記念館正面入口f:id:YBR125K:20201126225758j:plain

本日は閉館しましたf:id:YBR125K:20201126225847j:plain

陸奥記念館入口に安置されている艦首錨f:id:YBR125K:20201126225536j:plain

f:id:YBR125K:20201126225635j:plain

陸奥についてf:id:YBR125K:20201126230106j:plain

陸奥記念館に隣接するキャンプ場に展示されたPS-1飛行艇f:id:YBR125K:20201126230723j:plain

f:id:YBR125K:20201126230812j:plain

f:id:YBR125K:20201126230917j:plain

 長周新聞

大島大橋に巨大貨物船が衝突 船舶関係者らを唖然とさせた前代未聞の事故

岩国城にて

ロープウェイのゴンドラを降りてf:id:YBR125K:20201125203353j:plain

こんな感じの山道を淡々と上っていくf:id:YBR125K:20201125203515j:plain

豊かな自然は生き物にとっても楽園f:id:YBR125K:20201125203617j:plain

上るにつれて視界が段々開けてきてf:id:YBR125K:20201125204137j:plain

岩国城が見えてきたf:id:YBR125K:20201125204230j:plain

【案内看板より】

岩国城 Iwakuni Castle

 初代岩国藩吉川広家により1608年に作られた山城です。1615年の一国一城令によりわずか7年で破却されました。現在の天守は1962年に再建されたものです。

 天守内には武具などを展示しており、天守最上階からは、岩国市内の眺望を楽しめるほか、城周辺では約400年前の石垣や空堀跡なども見ることができます。f:id:YBR125K:20201125205003j:plain

受付でチケットを見せて

f:id:YBR125K:20201125205052j:plain

狭く急な階段を上っていくとf:id:YBR125K:20201125205329j:plain

由緒ありそうな刀剣類が展示されているが、あいにくこの方面にはまったく疎いせいでたいした興味もないf:id:YBR125K:20201125205438j:plain

【案内パネルより】

元和元年(1615)、江戸幕府により一国一城令が出され、各地の大名はその領国に応じて残せる城以外はすべて廃城とし、壊さなければならなくなった。このとき、岩国城を壊すよう毛利輝元らの命令があったが、吉川広家周防国には岩国以外に城がないため、壊す必要はないのではないかと主張する。しかし、長門国では萩本藩の萩城を残すために長府の毛利秀元の城を壊さなければならなかったため、岩国の城も壊すようにと重ねて伝えられ、最終的に壊すこととなった。関ケ原の戦い吉川広家毛利輝元に相談せず徳川家康と密約を結んで以降、毛利氏の一族団結において感情的不和が心配されたため、その配慮もあって壊したともいえる。また、寛永14~15年(1637)にかけておこった島原の乱において、壊された城跡が再利用されたことから、石垣についても破壊が命じられた。これにより石垣も壊すこととなったが、山の麓に御土居がある東側の石垣が安全上残されたのをはじめ、壊されていない箇所もあることから、吉川広家が城の破壊に消極的で、対外的に破壊しなければならない最低限の範囲で破壊したことが分かる。なお、山上の城郭は失われたものの、御土居は藩主の居館であるとともに政治の中心地であったため、明治時代はじめまで残っていた。f:id:YBR125K:20201125210639j:plain

吉香公園ではしゃいでいた子供達も上ってきたらしいf:id:YBR125K:20201125210959j:plain

 天守閣に設置された双眼鏡に100円硬貨を入れ、河原に駐めたバイクを確認してみたりしてf:id:YBR125K:20201125211657j:plain

三津浜港行きのフェリーの出港時間を思い出し、一瞬よぎるツアー最終日の侘しさを振り払いつつ足早に階段を降りていくf:id:YBR125K:20201125212759j:plain

今年は全国的にクマ被害が拡がっているf:id:YBR125K:20201125213033j:plain

さよなら岩国f:id:YBR125K:20201125213322j:plain

 

f:id:YBR125K:20201125214929j:plain

 

アクセスカウンター