十夜ヶ橋にて
GoToトラベル割引を利用して予約したスーパーホテル愛媛大洲インターに夜9時半少し前に到着。
ホテル隣の大阪王将で飲酒と食事を手早く済ませ、ホテルから60mほどのところにある十夜ヶ橋にほろ酔い加減で歩いて向かう
国道56号線に面して立つバス停看板。
今まで数え切れないほどここを通過したが橋の下に行くのは初めてだ
ゆきなやむ 浮き世の人を 渡さずば
一夜も十夜も 橋と思ほゆ
横になったお地蔵様に小さな布団がかけられている
夜間はまったく人気のないこの場所に似つかわしく?蹴り破られた鯉の餌の無人販売機
【案内看板より】
弘法大師 御野宿所
弘法大師が野宿修行されたこの橋の下で 私達も野宿してお大師様の遺徳を偲び御加護に浴するため この場所を四国霊場唯一の野宿修行道場にいたしました。
※野宿修行を希望される方はゴザを用意してありますので納経所までお申し出下さい。
願主 大阪八十八会 大先達 榎本淳峰
一人の寂しさよりも頭上の国道56号線を通過するクルマの音と振動で眠れそうにない
洗濯機を分解
小島(おしま)にてその5
中部砲台跡に向かって山道を引き返していたら、体長1mを超える大きさの猪に遭遇した。横向きになって通路を塞ぐ茶色の塊は、一瞥しただけで分かったので彼我の距離は10メートルくらいだったと思う。
そういえば島に上陸後、要塞跡に向かって歩いている途中で何度か「ぐるるる~っ!」と獣の唸り声のような音を聞いたが、そのつど海峡を通行する汽船の汽笛か何かを聞き間違えたのだと思い込み無視していた。
こちらに気がついたのか、身体の向きを変え正対しようとするかのような動きをし始めた。
とにかく相手から眼を離さないようにして後ずさりしながら、猪から見えないところまでじり下がり、死角になったとみるや駆け足で山道から一段高くなった場所に駆け上がった。
枯れ枝以外、武器になるようなものは周辺に見当たらない。
1分余りじっとして様子を伺っていたが、どうやら追いかけてくる気配がないのでまた山道に降りた。
もはや中部灯台跡に行く気など失せてしまい、とにかく海岸近くまで引き返すことにした
海岸にほど近い場所まで下りてきたら、今度は左手の茂みからさっきの半分位のサイズの猪が飛び出してこちらの様子をうかがっている。
こいつとなら闘っても勝てるような気がしたが、こちらもしばらく様子を見ているうちにさっき出てきた反対側の茂みに走り込んでいなくなった。
この島の残り少ない人家の脇の家庭菜園を囲う鉄柵が念入りだったことを思い出す。要するに今の季節は猪だらけなのだ
仕方がないので次の船の時間まで海岸付近をうろついて過ごす
現在休業中の海の家。「防犯カメラ作動中」らしい。
小島の沖に設置された海上灯台。探照灯跡から回り込んだ位置からの眺望。
右手奥に見えるのは来島
満潮の時間らしく護岸に波しぶきが打ち寄せている
榴弾砲のレプリカも見えてきた
猪除けの柵に囲まれた家庭菜園
出港時刻が近づいてきた
かつては料理屋か旅館だったらしい海沿いの木造家屋。
錆びたブリキ看板に辛うじて「鯛めし」の文字が読み取れた
ではさようなら
2020/10/20
小島(おしま)にてその4
司令塔跡から急な石段を降りてレンガ造りの将校地下室跡に
内部に入って入口付近を振り返る
照明器具をぶら下げたらしいフックが残っている
奥のレンガ壁にへばりついたトカゲ
一旦外に出て、今度は隣の地下兵舎跡に
入ってみたが、内部は将校地下室跡と大差ない
ここの天井にも伝声管が
こんな具合に3つの兵舎が繋がっている
一番奥の兵舎に繋がる連結通路の天井で見つけたコウモリ。片足だけで器用にぶら下がっている
一番奥の兵舎跡の様子。ここを出て左に進むと司令塔跡につながる通路があるが
立木が倒れて通行禁止になっていた
ひび割れた兵舎跡の壁面。何らかの補強工事が必要な状況だ
将校地下室跡の向かいに位置する浄化装置跡
見残した中部砲台跡に向って歩く
小島(おしま)にてその3
【案内看板より】
南部砲台跡 Southern battery remains
この南部砲台は、小島の中で一番南側の砲台で規模も小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する配置にあります。
当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジア侵攻に対して、国内の沿岸に防衛態勢として要塞の配備を進めました。
石垣の石は、当時1個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島要塞の全構築費用は、当時の金で30万円であったといわれています。
砲台の設計図は、陸軍工兵大佐上原勇作(後の上原元帥)によって作成されました。整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900)に終わったとされています。
大砲の据え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地域住民にも守秘を強いていました。
南部砲台跡には、竣工当時は軽砲(12cm加農砲)2門が備え付けられました。現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみであります。
地下室跡
内部に入ってみる
外部と会話するために壁面に穿たれた連絡孔
かつて12cmカノン砲が据え付けられていた砲座跡
午後1時を過ぎたので、この場所に座って今治市内で買ったおにぎりを手早く片付けたあと、島の頂上部に向ってまた歩きだす
中部・北部砲台跡の道しるべ
付近に動物の気配を感じて立ち止まり、しばらく息を殺し耳をすましてみるが何も聞こえない
今治市街方面を眺める
中部砲台跡が見えてきた
中部砲台跡配置図
【案内看板より】
中部砲台跡 Central battery remains
小島の芸予要塞の中核をなす中部砲台には、この要塞の主砲である28cm榴弾砲6門が配備されていたほか、地下室や井戸、井戸水の浄化装置などが造られ、山頂には指令台が設けられていました。
28cm榴弾砲は、角度をつけて発射した弾が放物線を描いて飛んでいく大砲で、海上からは見えない構造となっています。
小島の要塞は、この場所で実戦に使われることはありませんでしたが、明治37年(1904)の日露戦争時には、中部砲台の榴弾砲の2門が旅順に運ばれ、旅順攻略に活躍したと言われています。
現在では榴弾砲の砲座跡が残るのみでありますが、赤レンガ等で築かれた施設とともに貴重な遺構であり、当時の緊迫した様子を知ることができます。
砲座跡奥の階段を山頂へ上がった指令台跡からは来島海峡のすばらしい眺望を満喫することができます。
地下室跡
司令塔跡への道しるべ
山頂の司令塔に続く横幅の狭い急角度の石段を登る
あと一息で頂上だ
頂上手前に設けられた司令室の入口
頂上にいる将兵に命令するための伝声管
司令塔跡
【案内看板より】
瀬戸内しまなみ海道・世界初の三連吊橋「来島海峡大橋」が架かるこの海峡は、来島村上水軍の根拠地として、また、瀬戸内随一の海の難所として知られてきた。鳴門海峡、関門海峡と並ぶ日本三大急潮は、ときには高低差4メートル、最強10ノットにも達し、狭く4つに分かれた水道に無数の渦潮を見ることができる。春から夏にかけ発生する濃霧も海難事故多発の原因となり魔の海峡とよばれてきた。1日1000隻以上の船舶が航行するこの海峡の中水道と西水道は国際航路に指定されている。中水道は潮の流れどおりに、西水道は潮の流れに逆らって、交互に一方通行となる世界でもここだけのルールがある。
しばしの間眺望を楽しんだあと、来た道を引き返す