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鞆の浦へ(その2)

鞆町後地の沼名前神社にほど近い日蓮宗妙蓮寺のかたわらにある山中鹿之助首塚

楠戸義昭著 戦国武将名言録より抜粋

願わくば我に七難八苦を与え給え

尼子氏再興に執念を燃やした山中鹿之介幸盛は、「七たび生まれ変わって朝敵を滅さん」といって、負けることを知りながら、後醍醐天皇のために足利尊氏と戦い、湊川で戦死した楠木正成とともに、忠臣の中の忠臣として人口に膾炙(かいしゃ)されてきた。
鹿介は鹿助、または鹿之介とも、さまざまに表記される、十六の春、甲(かぶと)の前立てに半月をつけ「今日より三十日の内に、武勇の誉れをあらわしたい」と三日月に祈った。ちょうど尼子義久伯耆鳥取県)の小高城に山名氏を攻めた。参戦した鹿介幸盛は、ここで隣国にまで勇者をもって響く菊池音八と渡り合い、その首を取るのだ。彼は以後、三日月を守り神として信仰した。
戦国山陰の雄、尼子氏の居城だった富田城(島根県安来市)は、ちょうど月が標高197メートルの山城に昇るため、その山は吐月山といわれ、また月山(がっさん)と称された。かつての城域内にある太鼓壇公園に三日月に祈る鹿介幸盛の大きな銅像が立っている。富田城の麓の谷地には山中屋敷跡伝承地がある。彼はこの尼子の城上に昇る三日月を信仰したのだ。
鹿介幸盛の父満幸は、尼子清定の弟の幸久(山中氏の祖)から六代目に当たるが、幸久が兄清定の謀殺を企てて発覚し、幽閉され死んだ。このため山中氏は尼子一族の重臣より、一ランク落ちる一門衆とされた。
父満幸は鹿介が生まれた翌年に死んだため、母なみによって育てられた。母は世の常の女性とは違い、ひとかたならず武の道に通じ、鹿介にも剣を教えた。教育熱心な母の薫陶のもとに育った鹿介は、手足は太くたくましく、まなざしも鋭く、物に動じぬ性格の少年で、武芸の上達は早く、十歳の頃から習った弓もたちまち腕を上げ、十三歳で早くも敵の首を取ったとされる。
太閤記』には、鹿介幸盛は成長するにつれ、器量は人を超え、心は剛にして思慮深く、人を差別することなく慈しんで、武功に励んだとある。
永禄九年(1566)、前年から毛利元就に包囲された富田城には、女・子どもも籠城し、食料が底をついた。その疲労のなかで母が死んだ七日後の十一月二十八日、尼子義久はついに元就の軍門に降って尼子氏は滅んだ。時に鹿介二十二歳、「願わくば我に七難八苦を与え給え」と守り神の三日月に祈り、尼子氏再興に執念を燃やす男となる。以後十二年、営々として辛苦の道をたどるが、夢はかなわなかった。

浮ついた気持ちを捨て、腹をくくれ。敵の首を取るも、また各々が首を取られるも、ただ今この時に心構え一つにあり。

月山富田城に尼子氏が滅びる。すると尼子旧家臣の多くが、強きになびき、昨日の敵の毛利氏に従う現実を目の当たりにし、山中鹿介幸盛は眉をひそめた。彼は三日月に「七難八苦を与え給え」と祈り、毛利からの誘いに対し、怪我治療のため有馬温泉に行くと偽って、浪々の身となった。
鹿介は明智光秀のもとに身を寄せて、丹波攻略の戦いで二度、抜群の功名を立て、織田信長に背いた松永久秀の討伐にも参戦した。
当時、因幡鳥取城主だった山名豊国が老臣の武田豊前守に追放され、放浪の身となって丹波にいた。同じ境遇から二人は親しくなる。豊国が鳥取城の奪還をめざす戦いに、鹿介は協力して、一軍の将となった。彼の周りには、鹿介が惚れ、尼子再興の同じ夢を追って従う十数人の股肱(ここう)の臣がいた。冒頭の言葉はその臣を初めとし、鹿介のもとに集まった兵たちに向けて発せられた言葉である。
この戦いに豊国は勝った。豊国は勝利はひとえに鹿介の剛勇と知略のたまものとして、鹿介に本丸を与え、豊国は二の丸に入ったというが、やがて不和になり、鹿介は豊国のもとを去った。
鹿介は信長を頼る。そして羽柴秀吉が毛利攻略の出撃基地にしようと手に入れた、播磨、美作、備前三国の境界に位置する上月城兵庫県佐用町)を預かった。鹿介は尼子勝久を奉じ、秀吉の先兵となって毛利を打ち破って、出雲国を奪還しようともくろんだ。秀吉は全面的な援助を惜しまなかった。
しかし誤算が起きた。三木城の別所長治が裏切り、しかも秀吉軍は緒戦で負けた。信長は都から遠い上月城を捨て、三木城攻めに専念するように秀吉に命じた。
情けに厚い秀吉は、尼子主従を見殺しにはできないと、上月城に使者を送って、「城の兵は残らず切って出よ。尼子主従救出の軍を出す。再起の機会を必ず与える」と申し送った。すでに城は毛利軍に包囲されていたのだ。
勝久と鹿介は「自分たちが助かっても、多くの家臣、女・子ども、病人を見捨てるわけにはゆかぬ」と断った。ここに城は攻められ、勝久は自害し、勝久の「汝は生きて再興をめざせ」の命令に、鹿介は生きる道を選び降伏した。だが毛利氏は鹿介を生かしておけば、後の災いになるとして、護送途中、高梁川の阿井の渡しで斬り殺す。尼子再興の夢は鹿介の命とともに消えたのだった。

首塚から目と鼻の先にささやき橋がある

【案内看板より】
〈ささやき橋伝説〉
応神天皇の頃、百済よりの使者の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語(ささやき)の橋と語りつがれています。

戦国武将名言録 (PHP文庫)

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