徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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鞆の浦へ(その3)

山中鹿之介首塚からささやき橋を渡る。
妙蓮寺の土壁に沿って道なりに歩くと沼名前神社の境内に出る。

笠木のかけだし(先端にかけて反り返る部分)が大きな反りをみせて外方に跳ね上がる肥前鳥居の特徴を持つ沼名前神社の大鳥居。
肥前鳥居は、肥前地方に興った独特の鳥居の形式で、慶長年間(1596〜1615)に特に造営が盛んだったことから、別名「慶長鳥居」ともいう。

古事記序文の一節が刻まれた結界石塔

右側の石塔は参神作造化之首(さんじんぞうかのはじめとなり)、左側は二霊為群品之祖(にれいぐんぴんのおやとなりき)。
参神(三神)とは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)のことで造化の三神という。
二霊とは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)と天之常立神(あめのとこたちのかみ)のこと。
これら五柱の神々を別天津神(ことあまつかみ)といい、すべて独神(ひとりがみ、男女の性別がない神)である。
天地開闢の際に現れたことになっている。

随神門の手前左手にある神馬舎
木馬が一頭安置されている

【案内看板より】
この能舞台豊臣秀吉が愛用し伏見城内にあったものです。初代福山藩主水野勝成が二代将軍徳川秀忠よりゆずり受けたと伝えられます。三代水野勝貞がこの社に寄進し、1738(元文3)年この場所に設置されました。この能舞台は、それぞれの材料に番号や符号をつけた組立式で、戦場にも持ち運べるようになっています。正面の鏡板には松と竹を描き、桃山時代能舞台の特徴をもつ貴重なものです。
〈構造〉一重切妻造、桁行5.45m・梁間5.33m、屋根こけらぶき

沼名前神社の能舞台(重要文化財)

能楽「鞆浦」石碑

格子の隙間から随身を見る

【案内パンフレットより】
本日はようこそご参拝くださいました。
皆様が大神様のご加護を受けられ、平穏に健やかにお過ごしになられますようお祈り申し上げます。

御祭神:大綿津見命須佐之男
御由緒:今から千八百数十年ほど前、第十四代仲哀天皇の二年に、神功皇后が西国に御下向の際、この浦にご宿泊になり、大綿津見命を祀られ、海路の安全を祈られたことに始まる。(渡守神社・元の沼名前神社)鞆祇園宮(須佐之男命)の鎮座起源年代は不詳。
明治九年に鞆祇園宮に大綿津見命を合祀し、須佐之男命を相殿として現在の沼名前神社となる。
社格国幣小社 延喜式内社
例祭:五月二日
特殊神事:お弓神事 二月第二日曜(鞆八幡宮の祭礼) お手火神事 七月第二日曜の前夜
ご祈祷:毎日午前九時〜午後四時執行(祭典等行事の際はこの限りにあらず)
家内安全、商売繁盛、無病息災、病気平癒、厄除、歳祝、安産、初宮、百日詣、七五三、必勝、合格、交通安全(車のお祓)、海上安全、大漁満足、町内安全など
結婚式:ご神前にてご奉仕いたします。
出張祭:地鎮祭、上棟祭、竣工祭、家屋清祓、神葬祭など 神主が出向いてご奉仕いたします。
授与所:御神札、御守、御神籤など授与いたします。毎日午前八時〜午後五時

沼名前神社拝殿

拝殿内部の様子

拝殿横から社務所鞆の浦を見下ろす。
海際に立つ大きな建物はホテル鴎風亭

社務所の傍らに設置されたやや場違いな重火器

今から99年前の1914年、同盟関係にあった大英帝国軍との共同作戦により日本軍がドイツ軍に勝利した青島攻略作戦によってもたらされた戦利品らしい。
かつては膠州湾を睥睨していたであろう銃口が今は燧灘を見下ろしている。

大型砲の製造で名を馳せたドイツKRUPP社の製造プレート

参道脇の一画に張られたテントの中では、毎年7月第2日曜前夜にに行われる神事の準備が進んでいた。

『お手火祭り』に使われるかなり大型の松明

2012年 鞆の浦 お手火神事

鞆の浦観光ガイド