松蔭神社
【案内看板より】
文久2(1862)年1月、土佐藩士坂本龍馬が、同藩士の武市瑞山の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねて来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まった。たまたま薩摩藩士田上藤七も同藩士樺山三円の書簡を持参して来ていた。図らずも久坂を中心に薩長土の三藩士が一堂に会することになり、後日の薩長土連合を暗示する前兆となった。
久坂の武市瑞山宛の、書簡によれば、「諸侯も公家も恃(たの)むに足らず、草莽(そうもう)の志士を糾合し、義挙の外はとても策無し」と述べられており、松蔭の「草莽崛起論」に通じる内容を語り合ったと思われる。
この石碑は、明治百年記念の昭和43年(1968)に建立。
向かって右から「薩州・田上藤七、長州・久坂玄瑞、土州・坂本龍馬」、左側に「文久二年一月、鈴木勘蔵宿之跡」とある。
元総理大臣 岸信介 揮毫
「薩長土連合密議之處」石碑
吉田松陰歴史館前にある記念写真用の顔抜き看板
松下村塾跡を目指して歩く
昭和43年(1968)明治維新100年を記念して建立された石碑。揮毫は佐藤栄作元首相
「明治維新胎動之地」石碑
史跡 松下村塾
講義室には吉田松陰先生像が鎮座
下田事件の後、幽閉されていた部屋
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安政6年(1859)10月27日に斬刑に処される
留魂録より
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」