徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

足摺岬(その2)

午後1時前に足摺岬に到着。
香川愛媛の瀬戸内側県境付近に住む者にとっては高知県のこの辺りが一番遠い「四国」である。
自宅から下道のみを利用して行く場合、下手をすると広島市内や神戸辺りまで行くのと変わらないくらいのイメージだ。
今回ほぼ20年ぶりの来訪になる

案内看板の前でとりあえず記念撮影

足摺岬観光案内所」の敷地に立つ地元出身の偉人中浜万次郎の像

【台座の石版より】

中浜万次郎  1827-1898

 中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船
John Howland号に救助された。船長William H.Whitfieldは、万次郎の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となった。彼は10年におよぶ国外生活中John Mungと呼ばれ、英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
 とき1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時期もさいわいして、彼は罪にとわれなかったばかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参にとりたてられた。
 これより中浜万次郎は外国事情の講話やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による、初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。
 明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳のとき、すこしく健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。   1968.7.11

展望台への遊歩道入口に立つイノシシ注意の看板

ヤブツバキのシーズンが終わった平日にもかかわらず観光客はそこそこ多い。
木漏れ日の中を展望台に向け歩いていく

展望台に到着。
水平線が丸い

展望台直下の荒々しい海岸風景

やはり景色の雄大さは瀬戸内海沿岸地域の比ではない

四国の最南端足摺岬の突端に屹立する足摺岬灯台を眺望する

【案内看板より】

土佐であい感動風景
とっちょこ!こうち

No.86
足摺岬展望台
Cape Ashizuri Observatory

足摺岬は足摺半島の先端にあり四国最南端に位置します。花崗岩の台地が沈降と隆起をくりかえしてできた断崖で、さらに太平洋の荒波によって現在のような変化に飛んだ地形となりました。ヤブツバキが美しい自然遊歩道の先にある展望台から望む太平洋は180度以上の大パノラマがひろがり、地球の丸さを実感できます。岬の先端には青い空に映える白亜の灯台がそびえています。

Cape Ashizuri, on the tip of Ashizuri Peninsula is located ato the southernmost point on Shikoku Island. The path through wild camellias leads you to an observatory with a panoramic view of the Pacific of over180 degrees,assuring you the earth is round. The varied terrain was formed after the granite plateau underwent repeated sinking and upheaval,and erosion by heavy waves.On the tip of the cape rises a white lighthouse shining against the blue sky.

白亜の足摺岬灯台をしばし眺める