徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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宮が尾古墳公園

王墓山古墳公園から県道24号線を三豊市方面に1kmほど走ると道路左手に宮が尾古墳が見えてくる

こんもりと盛り上がった墳丘が駐車場から見える

【以下解説はすべて現地の案内板より】

古墳時代

善通寺市は瀬戸内海の南岸にあり、温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、独自の文化を育んできました。少なくとも旧石器時代の終わり頃(2〜3万年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。
弥生時代の終わり頃(3世紀末)になると集落はさらに発展し、政治的に人々をまとめる豪族が登場します。人々は豪族が亡くなると大きな墓を造って葬るようになりました。
やがて各地の村々は大和の大王家を中心に統合され、前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。大きな墓は仏教が伝わり火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。この大きな墓を古墳と呼び、古墳が造られた時代が古墳時代です。
古墳の盛り土や石室を調べると、驚くほどすぐれた土木技術があったことがわかります。また、死者に供えられた副葬品からは当時の生活状況や工芸技術がわかります。

紀元前200〜300万年
旧石器時代 人類の誕生、石器の使用

紀元前1万年 
縄文時代 土器の使用

紀元前300年
弥生時代 稲作の始まり

3世紀末頃
古墳時代】 統一国家の始まり

7世紀初頭
奈良時代 法治国家の始まり


有岡古墳群

善通寺市内には400基以上の古墳あります。昭和57年に発掘調査した王墓山古墳では、石屋形をもった横穴式石室から、豪華な副葬品がたくさん出土しました。この発見によって王墓山古墳と周囲の代表的な5基の古墳が、有岡古墳群として国の史跡に指定され、永久に保存されることになりました。
6基の古墳は、この地域を治めた豪族の墓と考えられ、香川県(讃岐)の古代史を知る上で重要であるばかりでなく、とくに王墓山古墳の豪華な副葬品は、大和政権や九州の先進地域との親しい関係を示す貴重な資料なのです。

前期 4世紀代
野田院(のたのいん)古墳
鶴が峰4号墳

中期 5世紀代
磨臼山(すりうすやま)古墳
丸山古墳

後期 6世紀代
王墓山古墳

終末期 7世紀初頭 
宮が尾古墳・2号墳

内部の様子をフラッシュ撮影

装飾古墳

古墳には「装飾古墳」といって、石室の壁面が絵画や記号で飾られた珍しいものがあります。装飾古墳は九州地方に多く知られていて、顔料で色をつけた同心円や三角形などの抽象図形のほかに、盾や※靱(ゆき)、船のような器物、人物や馬、鳥などの動物が描かれたものがあります。

※靱(ゆき) ゆき或いはゆぎ・うつぼともいう。矢を携帯するための筒状の容器のこと

また、細い線だけで表現した線刻画も知られています。
いずれも魔除けや鎮魂(死者の魂を慰めること)が目的と考えられていますが、文字による記録がない時代の絵画は、古墳に立てられた形象埴輪(けいしょうはにわ)などと共に、当時の人々の生活の様子や考え方を知る貴重な資料です。

宮が尾古墳の線刻画

宮が尾古墳の横穴式石室内部には線刻の壁画が残っています。墓室突きあたりの巨石には、人物群・大勢の人が乗った船・馬に乗った人物・船団などが、まるで物語絵巻のように描かれています。西側の壁には刀を持った人物の姿も見えます。
とくに重要なのは、奥壁の上部に描かれた小さな家を取り囲む5人の人物です。当時の葬式の様子を描いた珍しい壁画として注目されています。

宮が尾古墳と2号墳

宮が尾古墳は入り口が崩れて埋まっていました。また※羨道部(えんどうぶ)も一部壊れかけていたので、一度石を外して修理したとき、古墳の盛り土の中から絵が描かれた石が2つ見つかりました。古墳づくりの最中に壊れてすてた石の一部で、絵は石室の奥壁のものと同じ小さな家、そして靱、矢などの道具でした。

※羨道部(えんどうぶ) 古墳の横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部とを結ぶ通路部分のこと

画像左中央の大きなかけらが宮が尾古墳墳丘から、左下の小さなかけらが2号墳の石室に使われていた石材

2号墳の石室でも絵画のある石が見つかりましたが、それは、宮が尾古墳の盛り土の中から見つかった壊れた石の一部でした。壊れた石の破片が両方の古墳に使われていたのです。このことから両方の古墳が同時に造られたことがわかりました。

保存整備事業

宮が尾古墳は長い間地中に埋まっていましたが、昭和41年、山林であったこの場所を開墾している時に偶然発見されました。
横穴式石室は地下に残されていたので、ときどき雨水が溜まっていました。
そこで貴重な壁画を守るため、保存整備工事を実施することにしました。
平成4年度に地下に埋もれた墳丘の様子を調べ、平成5年度には土地を公有化しました。そして、平成6年度に墳丘全体を発掘しましたが、そのとき、宮が尾古墳の横に並んでもう1基の古墳(宮が尾2号墳)があることがわかりました。
宮が尾古墳と2号墳の保存整備工事は平成7年度から平成8年度にかけて実施し、整備の際の発掘調査では数多くの副葬品が見つかり、いずれも7世紀の初め頃に造られたことがわかりました。

宮が尾古墳横穴式石室原寸大復元模型