松浦史料博物館
場所が今一つ分かりにくかったが何とか博物館にたどり着いてバイクを駐車
【案内看板より】
松浦氏は嵯峨天皇の皇子源融(みなもとのとおる)を始祖とし、以来嵯峨源氏を名乗ってきました。室町末期に平戸の領主に松浦隆信(たかのぶ)、鎮信(しげのぶ)親子が出て、積極的に南蛮貿易を行い平戸は大いに勢力をのばし徳川時代に平戸藩を確立しました。
現在博物館になっているこの地は、もと蘭英貿易時代の藩主邸「御館(おたち)」跡で、石垣と階段は当時のままです。
この建物は明治26年、旧藩主詮(あきら)の住まいとして建てられた「鶴ヶ峯邸」で、謁見の間「千歳閣(せんざいかく)」は現在展示場となっており平戸を知る歴史博物館として、多くの人に親しまれています。
収蔵資料は代々藩主松浦氏に受け継がれてきたものがほとんどで、武具や什器、「松浦家文書」をはじめ、国指定重要文化財1件、県指定文化財14件を含む多くの重要な資料が保存、展示されております。
庭園奥にあります茶室「閑雲亭(かんうんてい)」は「鶴ヶ峯邸」創建当時鎮信流(ちんしんりゅう)宗家としての詮の設計により建てられたものでしたが、昭和62年の台風で倒壊したものを、忠実に再現したお茶室です。
財団法人 松浦史料博物館
登録有形文化財のプレート
以下、目を引いた展示物を順不同にて
【案内パネルより】
平家一門の守り本尊として安徳帝の御生母建礼門院が特に信仰せられた仏像と伝えられる。
A statue of Budda made
about one-thousand years ago
【説明パネルより】
蒙古襲来絵詞 松浦本
江戸時代(寛政年間の写し)
文永11年(1274)10月16・17日(文永の役)、元軍に平戸近海が襲われ松浦一族数百名が討たれ、また、弘安の役(1281)において、平戸島は朝鮮半島から渡ってくる船団と中国本土からの船団との合流地点に設定される。平戸が海上交通の要地であることを示す事例である。
【説明パネルより】
船織(伝八幡船の旗)
一六世紀
旗には中央に源氏の氏神・八幡神の称号「八幡大菩薩」、右に平戸・春日神社の祭神「春日大明神」、左に松浦家が守護神として敬った「式内社志自岐(しじき)大菩薩」の神号が墨書されている。松浦家二五代隆信(道可)の時代に使用されたものとされる。志々伎神社は平戸島南端にある志々岐山にある。
【説明パネルより】
渡辺綱甲冑肖像
江戸時代
平戸松浦家5代とされる。「前太平記」などによると、羅生門の鬼退治、大江山の(酒呑童子か)退治ほか豪勇ぶりが記述されている。
【説明パネルより】
達磨置物 江戸時代
平戸藩10代藩主(松浦家35代)松浦熙(まつうら・ひろむ)愛用の達磨。熙は信仰心が厚く、領内の寺社整備に力を注いだ。本像は迫力ある表情となっている。
〜史上初公開! 達磨大師の置物〜
七転び八起きの縁起物であるダルマ。家内安全・無病息災を祈願する日本で最も有名な縁起物です。
そのモデルとなったのが、達磨大師。達磨大師は禅宗の開祖と言われています。修行のために、9年間も座禅をしたという逸話は大変有名です。また、当館には全部で七十八段の石段があります。七転び八起きに通じ、縁起のよい石段といわれています。
【説明パネルより】
天正15年(1587)6月19日
松浦史料博物館所蔵
天正15年、豊臣秀吉が島津氏攻略の帰路、博多で発令した定書(さだめがき)。バテレン追放令ともいう。この資料は日本の権力者がはじめてキリスト教の禁止を表明したもので、全文五か条からなる。はじめの三か条でキリスト教伝道を禁じ、20日以内に宣教師の日本からの退去を命じている。つづく二か条で布教に関係ないものは通商を許可するとしている。これを受け、宣教師は平戸(生月島)に集まり対応を協議した。
【説明パネルより】
平戸城図
延享元年(一七四四)
宝永四年(一七〇七)より明治を迎えるまでの居城であった。
松浦家第三〇代棟(たかし)の時、同所にあった「日の岳城」は慶長一八年(一六一三)に、当主自ら火を放ち廃城にした。要因として徳川政権との緊張状態が考えられている。
外に出て食事の場所を探すことにする
出口付近に設置されている南蛮人が描かれた屏風
対岸に平戸城が見える