久万高原町渋草の大成入口
この山奥に神社があるのは知っていたがその規模に驚いた
久万高原町は避暑地として名高いが、神社のあるこの付近まで上ると風は冷たく気温も下がり、10月末の16時過ぎともなればダウンジャケットが欲しくなるほど寒い。
大鳥居左手の「大成神社」石碑
【案内看板より】
海南総鎮護 大成神宮
縁起
慶長五年庚子(かのえね)十一月・中川主膳正源直清命が、この里の鎮守として、應神天皇(八幡神)大山津見神(山の神)菅原道真命(学問の神)をお祀りして、大成八幡神社を建てました。
文久二年壬戌(みずのえいぬ)十月 大成八幡神社の西南百米の地に、その結構郡内第一といわれる豪壮優美な社殿を造営し、源直清命を合祀し、大成六社神社として遷しましたが、大正三年甲寅(きのえとら)六月 消失しました。
平成七年乙亥(きのとい)五月 慶長創建の地に再建し、皇祖神天照大神と聖帝昭和天皇の御神霊を勧請し、元伏見宮博明王殿下の思し召しにより、御社号を四国総鎮守の宮として、海南総鎮護大成神宮(たいせいじんぐう)としました。
献納された石灯籠が参道の両側に並ぶ
大成神宮拝殿(鮮雲殿)
拝殿正面に掲げられた豪華な扁額
海南総鎮護 大成宮
勲一等旭日大綬章 塩崎潤
拝殿の左側面を見上げる
拝殿(鮮雲殿)と御神体の盤座
神楽を奉納するための舞台
【社内の案内パンフ・落武者の拓いたかくれ里 大成より】
大成の里の開基、主膳正(しゅぜんのかみ)源直清(みなもとのなおきよ)公は伊予の大領河野家の武将でした。戦国時代予土の国境、柳谷村猪伏(いぶし)に天嶮の山城「大成城」を築いて、七度にわたる土佐勢の猛攻をことごとく避けましたが、天正十三年、主家滅亡により面河村の昼の野に帰農しました。
このあと、慶長五年、松山郊外の恵原城で河野再興の戦に敗れた公は、昼の野の裏山を越えて人跡未踏のこの地に分け入り、一党のかくれ里としました。そして大成城を懐古して里の名を大成としたのです。
そのとき、直清公は里の近くに山容の床しい気多(きた)山を仰ぎ、その山腹に巨大な盤座(いわくら)を発見して源氏の氏神、大成八幡宮を建立しました。
それに山里の守護として大山積神、礼儀学問のおろそかなることを恐れて菅原道真公を合祀しました。
ところが、幕末の頃、この宮に不思議なことが頻(しき)りに起こり、これを畏れた里人はそこから南西一○○メートルの地に社を遷しました。
そして、直清公を併祭して六社神社としたのです。
この六社神社は、社殿の結構壮麗なことから郡内第一の宮といわれましたが、大正三年失火により消失しました。
その後、我が国は動乱激動の時代に遭遇、さらに戦後の混乱、住民の過疎化と、神社再興の機会を失ったまま現在に至りました。
このたび、天真会が慶長創建の地に再建を発願し、平成五年十月、工を超し、平成七年五月竣工、新たに皇祖二柱を合祀し、天真会名誉総裁 伏見博明殿下の思し召しにより、ご神号を四国一の宮大成神宮としました。
大成神宮は、古くから「大成の六社さん」と呼ばれ、人生の大成・勝利の神として汎く世の崇敬をあつめていました。
大成神宮は、これからも皇運の弥栄と人類永遠の福祉を祈る本宮として、多くの人々の心のよりどころになるものと思います。
金鳶殿(きんえんでん)に向かって歩く
大手ゼネコンに続いて地元企業の名が連なる
参道入口のものと同じく高さ4mはあろうかという石灯籠
金鳶殿
龍が巻き付く中華風な意匠の柱