雨雲から逃れて
寒風山トンネル経由で伊野町~高知市方面に行くつもりで西条市までやってきたが、休憩がてら国道11号線のかたわらに停車、高知方面の空模様を眺めると山々は厚いグレーの雲に覆われていた。
かたや瀬戸内側の今治市方面に視線を向けてみると、梅雨間近とは思えないほど青空が広がっている。
そんなわけで、急遽目的地を変更ししまなみ海道方面に走り出した。
大三島の上浦港務所跡にて。手前のスーパーカブは唯一人桟橋で釣り糸を垂れていたおじさんのもの
建物裏手が国道317号線に面しているため、数えきれないほど通過しているが建物の海側は初見になる。
定期連絡船は20年前のしまなみ海道開通時に廃止された
桟橋の向かいに伯方島が見える
雨の気配がない休日は心が踊る
程内の夫婦滝
内子町大瀬北程内(うちこちょうおおせきたほどうち)
頭上を見上げると「ボケ封じ観音像」が見える。
県道側から観音像に直接行ける道はなさそうなので、とりあえず夫婦滝を目指して歩いていく
ゆるゆる回る水車の奥でからくり人形がぎこちなく動いている
渓流に沿って進むと道が二手に分かれる。
ボケ封じ観音への道とおぼしき右手の石段を上る
【碑文より】
夫婦滝公園整備の趣意書
滝の瀬戸は風光明媚な所で、古くから夫婦滝として親しまれ程内老人会を中心に、ボケ封じ観音様を始め絡繰り人形などを作り、地域の憩いの場としていたが、この度地域をあげて、広場や周辺の整備を行った次第であります。
平成十八年十月吉日 程内白寿会
観音像のある高台から県道241号線を見下ろす。
道路に沿って控えめに流れているのは鵜川
分岐まで引き返し滝へ向かう。
間伐したまま放置された杉の木をくぐりぬけさらに歩を進める
それなりに険しい道だが
5~6分も歩けばだんだん薄暗くなってきて滝に到着する
夫婦滝に到着。
赤い橋を挟んで左右に滝がみえる
左右に流れ落ちる滝は双方似たような水量で、どちらが夫でどちらが婦なのかよくわからないが、こちら(左)の方が若干水量が多いような多くないような…
こちらが右側の滝
深山幽谷の趣のある熊ノ滝川の流れを見下ろす。
画面左上付近が夫婦滝へのアクセス道
ボケ封じ観音の足元に咲いていた紫の花
こちらは水車の近くに咲いていた花
日も暮れかかってきたのでそろそろ帰ります
松山市北条辻の鹿島にて(その6)
「かしまーる」を出た後、渡し船の時間合わせのため鹿島港付近をぶらつく。
【説明パネルより】
この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。
ゆるぐとも
よもやぬけじな要石
鹿島の神のおわすかぎりは
鹿島港に常駐する周遊船「はなへんろ」
張り紙だらけの鹿島たま屋
さらに進むと海に張り出した太田屋鹿島店の年季の入った建物が
松の若葉と
散りかけた桜の花
店開きはもうまもなくだ
太田屋裏手の埠頭から対岸を眺める
太田屋の床下から
もう一度鹿島神社の境内に行って
おそらく今年最期になるだろう桜に名残を惜しむ
そろそろ
出航時刻だ
昼間のボヤも無事に鎮火したらしい
松山市北条辻の鹿島にて(その5)
松山市北条鹿島博物展示館「かしまーる」に入ってみる
【案内パネルより】
鹿島の歴史
■7世紀の中ごろ、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内海に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。
■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334~1338)に今岡四郎通任(いまおかしろうみちとう)によって、階段式連郭構造の鹿島城が築かれました。
■天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。
■現在、城郭遺跡としては、島の東北にある二ノ段郭と高さ2~3m、長さ約50mの石垣を残すのみです。
■この島には、神功皇后仮宮(かりみや)の伝説をはじめ、その出征の物語を残す髪洗磯(かみあらいいそ)、山頂御野立の巖(おのだてのいわ)、また河野通有元寇への進発、壇ノ浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。
鹿島城主、久留島(来島)通総と道康の肖像
【案内パネルより】
北条・鹿島の歴史と文学
河野氏と善応寺(ぜんのうじ)
◆平安末期から中世にかけて北条・風早地区は、河野氏が治めていました。当時、その本拠地のあった河野郷土居は、地方政治の一大中心地になっていました。14世紀前半本拠地は松山の湯築城に移って行きましたが、土居の跡地の善応寺は現在もその面影を残しています。
産経ニュースより 松山の善応寺、築300年と判明 再建時の棟札見つかる 「河野」姓発祥の地
一茶と虚子
◆江戸時代を代表する俳諧師・小林一茶は、二度、北条を訪れています。一度目に上難波の西明寺(現在の最明寺)を訪ねて通った道は、現在、風早・一茶の道として俳句愛好家に親しまれています。
◆松山出身の俳人・高浜虚子は、幼時、北条・柳原に住んでいました。その後も帰省するたび、幼時を懐かしみながら沖に浮かぶ鹿島を眺めていたことが文章に残されています。
また、鹿島を訪れた際、「鹿の舌 秋草の上に 赤く動く」と詠んでいます。
鹿島の文学碑
◆文学が盛んだった北条風早地区の影響を受けて鹿島には多くの句碑・歌碑があり、文学愛好家が訪れています。
◆北条出身の作家・早坂暁(はやさかあきら)さんと親しかった俳優の渥美清さんは、鹿島をことのほか愛し何度か訪れています。早坂暁さんの書による渥美清さんの句碑が平成25年に建立されました。
昭和の鹿島はかなりの賑わいをみせていた
今となっては跡形もない
5月3日は北条鹿島まつり