徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

松山市北条辻の鹿島にて(その4)

山頂の展望台めざして歩くf:id:YBR125K:20190419204142j:plain

鹿はここでは完全に隔離されているので、奈良公園のようにまとわりつかれたりいちいちご機嫌を窺う必要はないf:id:YBR125K:20190419205011j:plain

注意を要する植物6種f:id:YBR125K:20190419205220j:plain

シダ類が繁茂する濃い緑の中をf:id:YBR125K:20190419205746j:plain

心拍数を上げながら道標に従って登って行くとf:id:YBR125K:20190419210149j:plain

【案内看板より】

中世における伊予の国の覇者、河野氏の海域の古城跡であるが、最後の城主来島通総豊臣秀吉四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている。

現代の公園造成石垣の下部礎石は中世築城時代のものの様であるf:id:YBR125K:20190419210605j:plain

濃い緑の中に鮮やかなソメイヨシノの花f:id:YBR125K:20190419210831j:plain

山頂まであとわずかf:id:YBR125K:20190419210934j:plain

展望台が見えてきたが、別の場所でこれと全く同じデザインのものを見たことがあるようなないようなf:id:YBR125K:20190419211014j:plain

 この鉄塔は地デジの合同中継局なのかf:id:YBR125K:20190419212537j:plain

「愛媛朝日放送」を除くTV局のロゴが列記されているf:id:YBR125K:20190419212620j:plain

 展望台から松山市北条を望むf:id:YBR125K:20190419212911j:plain

夫婦岩を望むf:id:YBR125K:20190419213105j:plain

【説明パネルより】

御野立の巌

神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられるとこの巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。

 他に御野立の巌に立ち思いにふけったとの伝説や西海(朝鮮地方)を眺めたとの伝説がある。
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 テキトウに山を下っていくとf:id:YBR125K:20190419214111j:plain

鹿島神社の裏手に出たf:id:YBR125K:20190419214241j:plain

松山市北条鹿島博物展示館

「かしまーる」f:id:YBR125K:20190419214542j:plain

見物無料なのでちょっと入ってみる

入口近くのプランターに植えられた濃いピンクの花f:id:YBR125K:20190419215017j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その3)

鹿島一の眺望が望める島の西側は落石、土砂の崩落の危険があるため通行止めになっているがf:id:YBR125K:20190418211840j:plain

先行するカップルの後につかず離れずついて行くf:id:YBR125K:20190418212030j:plain

台風時の漂流物に直撃されたらしくアルミ製の欄干はあちこち曲がっているf:id:YBR125K:20190418212435j:plain

海蝕洞の入り口にかかるコンクリートf:id:YBR125K:20190418212806j:plain

水晶ケ浜までに数箇所の海蝕洞を通過f:id:YBR125K:20190418213110j:plain

玉理(ぎょくり)・寒戸(かんど)島からなる夫婦岩が見えるf:id:YBR125K:20190418213443j:plain

石門と呼ばれていた場所が見えてきた

愛媛新聞ON LINEより鹿島の名勝地「石門」崩れる f:id:YBR125K:20190418213650j:plain

生々しい崩落の跡f:id:YBR125K:20190418213750j:plain

ネットの内側に土の塊がf:id:YBR125K:20190418213937j:plain

砂に描かれた先行者の落書きf:id:YBR125K:20190418214047j:plain

【碑文より】

鹿に聞け

 潮の秋する 

  そのことは

松根東洋城f:id:YBR125K:20190418214337j:plain

 【碑文より】

三由淡紅を賛う

氏は北条に生まれ十五歳にして村上齋月に師事す。常に鹿島を愛し、私財を投じて周遊道の整備架橋等を行、分月斗、虚子、東洋城、為山等、文人墨客を招聘し、鹿島の顕彰に勉む。大正六年、虚子鹿島に来遊の際洞を淡紅洞石橋を白石橋と名つけ以って氏の労をねぎらう。今この石橋を○にし碑を作り淡紅の美挙を永くここに止むf:id:YBR125K:20190418220544j:plain

 【句碑より】

 裏山に

  ひびく神鼓(しんこ)や

   青嵐(あおあらし)

      三由淡紅

次は展望台まで登ってみるf:id:YBR125K:20190419180749j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その2)

鹿島港に着くと港の周囲に集まった数人が対岸を見つめている。
複数の消防車のサイレンの音も聞こえてきた。
海を隔てた向こうの山を見るともうもうと煙が上がっている。

屋根の鹿も火事見物しているように見えるf:id:YBR125K:20190417210458j:plain

とは言うものの、文字通り対岸の火事ということでf:id:YBR125K:20190417225052j:plain

【案内看板より】

鹿島神社ご案内
KASHIMA SHRINE INFORMATION

鹿島神社
KASHIMA SHRINE

当社は武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主命(ふつぬしのかみ)をお祀りした神社で、神功皇后三韓征伐の途中、風早の浦、鹿島にとめて、戦勝と道中の安全を祈願して出陣したと伝えられている。その後、事代主神(事代主)をあわせて祀った。
 例祭日は四月十五日と十月十二日の二回あり、海上神輿渡御(しんよとぎょ)には往時を偲ぶ勇壮な櫂練り船が登場する。

櫂練り
KAINERI

櫂練りは治承年間(一一七七~一一八〇)河野水軍が、出陣に際し鹿島の神前に集まって、戦勝の祈願、或いは凱旋の時の祝勝行事を行なった。
このことが鹿島神社の神事となったと伝えられる。
 往時、河野水軍の出陣再現にも似て囃しの鐘や太鼓の響きも勇ましく、櫂練り船を先頭に伝馬船に乗り移った二隻の神輿(じんよ)が続き、お供船が大漁旗笹幡をなびかせて続く。
 櫂練り船の設備・装置・奉仕者の扮装、舸子(かこ)の漕法、樽上で剣櫂を操り舞う動作、ホーランエーの掛け声など絢爛たる海上絵巻がくりひろげられる。f:id:YBR125K:20190417212702j:plain

 鹿の形の俳句ポストf:id:YBR125K:20190417213643j:plain

島内のいたる所にある句碑f:id:YBR125K:20190417214148j:plain

 キャンプ場に併設された炊事棟f:id:YBR125K:20190417214835j:plain

 14組が同時に調理可能だが、満員状態で肩寄せあっての食事支度はなるべくなら遠慮したいf:id:YBR125K:20190417215154j:plain

これという目的があって島に渡ったわけではないがf:id:YBR125K:20190417215526j:plain

とりあえず島の周囲をf:id:YBR125K:20190417215717j:plain

ぶらぶら歩いてみることにするf:id:YBR125K:20190417220047j:plain

 

 

松山市北条辻の鹿島にて(その1)

松山市の北条港から渡船で約2分、直線距離で400mほどの沖合に鹿島があるf:id:YBR125K:20190416220008j:plain

距離が近いだけあって渡船料金は往復¥210だが、クルマで行くと¥510の駐車料金が必要。バイクは無料だったのでうれしいf:id:YBR125K:20190416220403j:plain

大鳥居のかたわらにある花壇は花盛りf:id:YBR125K:20190416220743j:plain

紫の花にf:id:YBR125K:20190416235559j:plain

黄色い花f:id:YBR125K:20190416235714j:plain

駐輪場の端っこにバイクを駐車f:id:YBR125K:20190416230402j:plain

 待合所の前には釣り客やキャンパーの荷物運搬用としてサイズの違うリヤカーがずらりと並んでいるf:id:YBR125K:20190416224652j:plain

 来島港と同様のメカニカルな浮き桟橋f:id:YBR125K:20190416230011j:plain

干潮時は急な坂道になりますのでf:id:YBR125K:20190416230200j:plain

屋根の上に鹿が乗った渡船がやってきたf:id:YBR125K:20190416230749j:plain

釣り客と思われる数名と共に乗船するなり出港

北条港がみるみる間に遠ざかるf:id:YBR125K:20190416231143j:plain

船旅気分を味わう間もなく鹿島に到着f:id:YBR125K:20190416231400j:plain

 

 

 

 

野村町小松地区へ(その3)

校庭跡には両脇に桜の木を従えるようにして背の高いコンクリート柱が立っているf:id:YBR125K:20190415172058j:plain

設置されているのはKDDIの西予野村小松北局

何かと話題のHUAWEI製ではなくERICSSON社製f:id:YBR125K:20190415172743j:plain

校庭の周囲に植えられた桜は今が最盛期f:id:YBR125K:20190415173008j:plain

見るものとてない校庭跡に咲き誇っているf:id:YBR125K:20190415173156j:plain

基地局脇の桜は若木でまだ細いf:id:YBR125K:20190415173549j:plain

西予市立惣川小学校 - 学校公式サイト

惣川小学校沿革史抄より抜粋

昭和16年4月1日
国民学校令施行にともない、惣川国民学校と改称し、惣川第二小学校は、舟戸国民学校と改称する。

昭和18年4月1日
上浮穴郡浮穴村大字小屋は、浮穴村より分離し惣川村に編入する。同時に浮穴国民学校小松分教場は、惣川村立小松国民学校として独立する。
昭和21年1月1日
小松分教場は、惣川村立小松国民学校として独立する。

昭和22年4月1日
学校教育法施行にともない、惣川村立惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校と改称する。

昭和30年2月11日
町村合併促進法に基づき、野村町と合併し、野村町立惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校と改称する。

昭和43年4月1日
惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校の3校を名目統合し、新たに惣川小学校とする。

昭和44年3月31日
惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校の3校統合のため、3校舎廃校とする。校章・校歌・校旗・通学服を制定する。

昭和44年4月1日
統合校舎が新築落成し、新校舎において入学式を挙行する。

昭和47年3月31日
小中学校体育館が落成する。
巴 松五郎氏の胸像除幕式をする。

 

 巴松五郎翁頌徳碑の頭上にも満開の桜f:id:YBR125K:20190415173917j:plain

 頌徳碑と小松分館の建物f:id:YBR125K:20190415175051j:plain

そろそろ帰りますf:id:YBR125K:20190415183031j:plain

 

野村町小松地区へ(その2)

ほぼ8年ぶりに訪れた集落跡f:id:YBR125K:20190414155816j:plain

強風が吹き付けたことによるものか、朽ちた窓枠が室内側に崩れ落ちている。
戸締まり出来なくなった建物の崩壊は早い

軒が崩れ落ちるのも時間の問題かf:id:YBR125K:20190414161407j:plain

トタン葺き屋根は錆びによる虫食いが進行f:id:YBR125K:20190414161119j:plain

大きく開いた戸口の隙間からトタン屋根の建物の内部に入り頭上を見上げるf:id:YBR125K:20190414161658j:plain

壁がこちら側に倒れてこないようにするためか、電柱くらいの太さの丸太でつっかい棒されているf:id:YBR125K:20190414162130j:plain

前回来訪時にはなかった道が家屋の裏手に向け続いているf:id:YBR125K:20190414162423j:plain

コンクリートで固められた遊歩道を歩いて窓が崩れ落ちた建物の裏手に回ってみる。石積みの上に建つ堂々たる土壁の建物は昭和の初め頃は旅館で、隣のトタン葺きは荷運びや客を運ぶために飼われていた馬の厩だったf:id:YBR125K:20190414163731j:plain

トタン屋根の建物の壁には去年の案内が貼られたままだが、調べてみると今年の大祭も同月同日なので、曜日無関係で毎年同じなのかも 

大野ヶ原龍王神社春の大祭 

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表の道に戻って三叉路にあるバス停まで歩いてみるf:id:YBR125K:20190414164839j:plain

 庇のある建物にかかったままの表札f:id:YBR125K:20190414165321j:plain

 窓枠ごと崩落して内部が丸見えの家f:id:YBR125K:20190414165611j:plain

どんな状況でこの家を出ていったのか。

いかなる者にも最期の日はやって来るf:id:YBR125K:20190414165857j:plain

壁材の合板が次々に剥離してすだれ状態にf:id:YBR125K:20190414170256j:plain

雨樋に溜まった泥には瑞々しい雑草がf:id:YBR125K:20190414170541j:plain

そば焼酎雲海」の行灯看板f:id:YBR125K:20190414170732j:plain

三叉路に着いた。

道路標識の右横にバス停の看板が立っているf:id:YBR125K:20190414171039j:plain

西予市生活交通バス バスのりば 色納(いろの)

※バスに乗るには予約が必要です。

(午前の便:前日まで 午後の便:2時間前まで)f:id:YBR125K:20190414171443j:plain

三叉路側から数えて一番端の家には布団と毛布が干されている。

この家とすぐ隣の家は今日現在でも居住されていてなぜか安心する。

裏手から舟戸川の穏やかな流れが聞こえるf:id:YBR125K:20190414172157j:plain

付近に咲く花々①f:id:YBR125K:20190414174353j:plain

付近に咲く花々②f:id:YBR125K:20190414174452j:plain

付近に咲く花々③f:id:YBR125K:20190414174620j:plain

三叉路に一本だけ立つ堂々たる桜は今が満開だf:id:YBR125K:20190414172736j:plain

 日暮れが近くなってきたので、ちょっとだけ小松分館に寄って帰ることにするf:id:YBR125K:20190414175413j:plain

 株式会社平凡社
日本歴史地名大系第三九巻
愛媛県の地名
1980年11月15日 初版第一刷より抜粋

小屋村 (現)野村町小屋
 現野村町の東北端にあたり、東西に長く延びた山村。
東は浮穴(うけな)郡(現上浮穴郡)、北は同郡・喜多郡・南は土佐国に囲まれる。四国山地の西部を形成し、村域は標高500メートルから1400メートルに及び、東部の大野ヶ原から発する舟戸川は西に向かって屈曲しつつ流下し、惣川村を経て横林(よこばやし)村で肱川に合する。江戸時代を通じ大洲藩領で、大洲藩領南端の村。
 慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)の浮穴郡の項に「小屋村 雑木山少有、茅山有」と記し、石高二〇八石一斗一升、うち田方七九石九斗二升二合、畠方一二八石一斗八升八合とある。
 小屋では旧暦七月に「こおどり」が行われる。念仏の間に鉦・太鼓・手拍子を打ち、扇子を振って歌いながら踊る。この踊は関東の鎌倉から来た人に習ったといい、そのなかの伏見踊は江戸初期の「女歌舞伎歌」に載っている。
 村域は昭和18年(1943)上浮穴郡浮穴村より野村町に編入された。

 

 

野村町小松地区へ(その1)

舟戸川に沿って県道36号を惣川方面にf:id:YBR125K:20190413172420j:plain

【道端の案内看板より】

四国カルスト 大野ヶ原への玄関口

ようこそ惣川(そうがわ)へ

天地の笑い
 耳をすまそう
  季節のうつろい

西海寺自然公園
        舟戸分館f:id:YBR125K:20190413172614j:plain

標高が上がるにつれて桜の花の密度が上がってくるf:id:YBR125K:20190413172912j:plain

道端に咲き乱れる淡桃色黄色白色f:id:YBR125K:20190413173206j:plain

男水自然公園に到着。

水場を賑わわせていたからくり人形が綺麗さっぱり撤去されたあとの湧き水付近をご夫婦と思われる年配の男女が掃除されていたf:id:YBR125K:20190413173751j:plain

 ここまで来たら目指す集落はすぐそこだf:id:YBR125K:20190414122627j:plain