徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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出雲願開舟の地

早明浦ダム見物の帰り道、本山町内をぐるっとまわってみたらこれまで一度も見聞きしたことがない文言が大書された立て看板を見つけた。出雲大社に関係する遺構か何かだろうと思い、とりあえず撮影して帰宅した。

調べてみると、今から225年ほど前の天明年間(1781〜1788)土佐国本山村助藤郷(現在の高知県長岡郡本山町)に住んでいた志和九郎左衛門という郷士が、村に蔓延する疫病の平癒を出雲大社に祈願した。一心の祈りが通じて疫病は平癒したが、出雲大社はあまりにも遠く土佐の山奥からの御礼参りは叶わない。
そこで志和九郎左衛門は小さな木彫りの舟を作ると、初穂料として中に15枚の寛永通宝を入れ封をした後、表に「出雲大社様 土佐本山村助藤寅年男」「天明元年丑ノ十月十七日」と刻し、自宅前の吉野川上流から流した。18ヶ月の後、舟は大社町稲佐の浜に漂着しているのを発見されて大社神前に供えられることとなった。

当時、願開舟を流した場所は出雲大社御師(寺社の世話人)により、大国主大神の神徳を広める布教活動が行われていた関係で、現地の社人(しゃにん)を出雲に遣わせて調査した結果、船主の名前と在所が判明したと伝えられる。

吉野川河口から最短コースを通ったとしても、太平洋から豊後水道を通って瀬戸内海に出、関門海峡を響灘に抜けてからもさらに日本海を200kmほど漂流する必要がある。目的の地に漂着するには、無数の川辺や海岸で、ようやく大海に出たのちも波間を漂う木っ端のような舟の行先を正す無数の善意がどれほど必要であったか想像に難くない。

志和九郎左衛門が流した願開舟は出雲大社の宝物殿に展示されている。