徘徊する魂   Traveling Alone ! 

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防府天満宮にて、その2

【案内看板より】

防府天満宮幕末の史跡めぐり
①萩狛犬
 文久二年(一八六二)に寄進されたこの狛犬は、萩の石工「武村唯昌」とあることから萩狛犬と呼ばれている。
 北野天満宮太宰府天満宮にも同様の萩狛犬が建立されており、幕末における長州藩での天神信仰の広がりを感じさせるf:id:YBR125K:20201023194922j:plain

北野天満宮の萩狛犬伝説~

禁門の変長州藩は敗走。その後、京都守護職会津藩北野天満宮に鳥居を奉納、しかし、鳥居の側に奉納されていた萩狛犬藩士が見つけ
「長州獅子、汝まだ去らざるか」
と、神社に撤去を要求。実力で倒そうとしたところ、一天にわかにかき曇り雷鳴が響きわたった。会津藩士は雷神である菅原道真公の祟りと恐れ逃げ帰ったというf:id:YBR125K:20201023200117j:plain

【案内看板より】

酒垂神社由緒

 菅原道真公の静まるこの山の中腹に巨岩があり、その岩間より清水が湧き出て、太古より里の人々に飲料水として使われておりました。
 建久六年(一一九五)俊乗坊重源上人が奈良東大寺再建の成就は松崎天神のご加護によると、奉斎の為に御社殿の造営を発願した時、工事に従う人夫達がこの岩水を飲んで渇をいやしつつ工事に励むうち、いつしか岩の水が芳香ある美酒の味に変わりました。
人々は社殿造営を喜び給う菅公のご神威によるものと驚き、公のご神徳を仰いで山を酒の垂れる酒垂山、岩を酒垂岩とよび、その岩を祀って祠をつくり酒垂神社と称したと伝えられ、以来事業繁栄・商売繁盛の神として信仰されております。
 平成十六年八月、老朽化した社殿を立市自治会と防府天満宮が協力して再建しましたが、後世に伝えるため改めて平成三十年四月ここ防府天満宮表参道に移設鎮座しました。

         防府天満宮・立市(たていち)自治f:id:YBR125K:20201023201321j:plain

賽銭箱も酒樽f:id:YBR125K:20201023201613j:plain

防府天満宮案内図f:id:YBR125K:20201023201733j:plain

昨今どこでも見かけるようになった注意書きf:id:YBR125K:20201023201913j:plain

【案内看板より】

大専坊

 防府天満宮の表参道に面した両側には明治維新まで九つの社坊(西側に断線坊・西林坊・東林坊・密蔵坊・会所坊・東側に円楽坊・等覚坊・乗林坊・千蔵坊)が立ち並んでいて一山の総号を酒垂山萬福寺と称した。
 大専坊はその一山の別当坊で天満宮創建当時の草創と云う。
 この坊は明治三年(一五五七)毛利元就が大内義長を山口に攻めこれを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となった。
 また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警護する諸隊の屯所となった。

          昭和六十三年 山口県指定史跡

防府天満宮幕末の史跡めぐり

②大専坊

伊藤博文が幼少の頃、ここに寄宿していたとの記録が、回顧録『藤候実歴』にありますf:id:YBR125K:20201023203034j:plain

 【案内看板より】

防府天満宮 茶室 芳松庵

 御祭神菅原道真公は、お茶に関する故実を調査研究して正史に著し、宮廷貴族を始め庶民社会に喫茶の習慣を広められ茶聖管公と称えられております。
 この茶室は御神忌千百年大祭の記念事業として御祭神の茶徳を顕彰し御神徳の余恵に預かるために建造されました。
 また庭内の一角には勤皇の志士達が密談を交わした史跡「暁天楼」も建立されています。
茶室を開いておりますので御気軽に御利用下さい。

 [お願い] 茶室並びに苑内は禁煙です。
       苑内での御飲食は御遠慮下さい。
       犬猫連れはお断りします。

        防府天満宮社務所f:id:YBR125K:20201024210801j:plain

本殿に向かって歩を進めるf:id:YBR125K:20201023203405j:plain

花で埋め尽くされた手水舎の水鉢f:id:YBR125K:20201023204033j:plain

【案内看板より】

防府天満宮 Hofu Tenmangu Shrine

学問の神様として受験生を始め多くの参拝客で賑わう天神様。ご祭神は、平安時代に高い学識をもって右大臣の位にありながら、延喜元年(901)藤原氏によって太宰権師に左遷された菅原道真公。太宰府へ下る途中に滞在した防府を愛でられた菅公をしのんで死後の翌年延喜4年(904)に建立。
 菅公をおまつりしたお社は日本全国約12,000社あるが、当社の創建を日本最初とし、北野(京都)、太宰府(福岡)とともに日本三天神と称されている。f:id:YBR125K:20201023204850j:plain

 【案内看板より】

扶桑管廟最初(ふそうかんびょうのさいしょ)の碑

扶桑とは日本のこと
管廟とは菅原道真公の御神霊を祀る神社のこと

すなわち
「日本で最初に創建された天満宮」との意

 当宮は延喜四年(九○四)に創建されました。
 防府の里人が古くより伝承してきた日本で最初の天満宮に寄せる誇りを永代まで碑を仰ぐ人々の心に刻んでいただきたいとの願意を込めてこの碑を建立しました。f:id:YBR125K:20201023210128j:plain

 

【案内看板より】

酒垂山鎮座天神本地観音堂縁起

 当観音堂には、中央本尊として観世音菩薩が、脇侍尊として向かって右に不動尊、左に毘沙門天尊がお祀りしてあります。
 創立は千数百年前と伝えられ、防府天満宮創立以後は、その本地佛堂すなわち奥の院として尊崇せられ、『天神様に詣っても観音様に詣らねば、詣ったことにならぬ』と広く言い伝えられるようになりました。
 このような信仰が起こったのは、菅公の母君吉祥女や菅公ご自身が厚く佛教に帰依せられとくに深く観音を信仰されたのによるものと考えられます。 そもそも観世音菩薩は、大慈悲の象徴であって、人間のあらゆる苦悩を除き、幸福を与えることをご誓願とされております。従って『念彼観音力』の信心深い人には、必ず『抜苦興楽』のご利益を授けていただけます。特に、当観音の霊験あらたかなことは周知の通りで、大方の信心を深め、不思議なご利益を受けられるようお勧めいたします。
 なお、脇侍尊の不動尊は、悪事災難を除き毘沙門天尊は学業成就、福運勝運をもたらすのを、そのご誓願とされています。
 願わくば、色濃き松の緑にも似て、我人ともに菩薩諸尊のご加護篤からんことを…

    昭和五十年十二月 
          本坊真言宗満願寺住職 福島尊光f:id:YBR125K:20201023211701j:plain


東門出口を見下ろすf:id:YBR125K:20201023212226j:plain

東門出口前にある「交通安全祈願自動車お祓い所」

クルマ4台分の区画があるf:id:YBR125K:20201023212512j:plain

 【案内看板より】

紫雲石

宮市門前町の豪商「松原屋」松原弘基が『紫雲石』と命名した霊石。願い事をすると必ず叶うとされる不思議な謂れがあり、松原屋はこの霊石の神秘で富豪をなしました。長子の弘美が明和年中に当宮参拝の方々にもこのご利益を戴いてもらおうと境内に移し、享和二年〈一八○二〉に孫の弘詮が台石を造り、霊石の由来と「祖父の志を継ぎ、子孫の限りなく大いなる幸せを願う」と刻まれています。f:id:YBR125K:20201023213945j:plain

 

【案内看板より】

貞宮遥拝所

明治天皇の第十皇女、貞宮多喜子(さだのみやたきこ)内親王の遺品が、山口県出身のご養育係楫取素彦男爵によって納められたf:id:YBR125K:20201023214747j:plain

【案内看板より】

防府天満宮幕末の史跡めぐり

楫取素彦(かとりもとひこ)・美和子(文ふみ)銅像

 楫取素彦明治天皇第十皇女貞宮多喜子内親王の養育主任を務められましたが、貞宮は僅か三歳で夭折されました。遺品を納める場所として建立した遥拝所をとおして貞宮を偲ぶように夫婦の眼差しが向けられています。
 防府ライオンズクラブ五十五周年、防府中央ライオンズクラブ五十周年を記念して建立され、製作は東京造形大学小川幸造教授、書は書家・富永鳩山(とみながきゅうざん)によるものです。f:id:YBR125K:20201023215534j:plain

 

【案内看板より】

防府天満宮幕末の史跡めぐり

⑧戦勝祈願詣での石柱

 この碑は、幕末に防府市の西浦小茅上町の住人が奉納した碑で、次のように刻まれている。

 大きい方は、
「為御武運長久日参、西浦小茅上町
  慶応弐年歳次丙寅秋九月朔日ヨリ千日」
 とある。志士達の戦勝祈願の千日詣開始を記念する石碑である。

 小さい方は、
「為御武運長久千日目、
  植松村、八河内 小松原 野地 
    明治四年辛未仲春、吉辰建」
 とある。千日詣が終了したことを記念する碑である。
戦の神様といえば八幡様だが、天神様に戦勝祈願しているのが面白い。奇兵隊に象徴されるように、当時如何に長州藩天神信仰が盛んだったかを物語る貴重な石碑であるf:id:YBR125K:20201023220707j:plain

【案内看板より】

防府天満宮幕末の史跡めぐり

⑥野村望東尼の碑

(右側歌碑)
もののふの あたに勝坂 超えつつも
 祈るねきこと うけさせたまえ

勝坂を超えて来る志士たちの願いを
どうぞお聞き届けて下さい。

(左側歌碑)
面白きこともなき世をおもしろく(晋作)
 すみなすものは心なりけり(望東尼)

面白くない世の中を面白く生きるにはどうしたらいいのだろうか
そのように生きていくのは心の持ち方次第です。f:id:YBR125K:20201023222144j:plain

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【案内看板より】

毛利重就公(英霊公)

 長州藩七代の藩主で、財政の確立に努め、産業の開発、教育の振興を計り、藩中興の英主と仰がれる。特に宝暦十三年(一七六三)撫育局を創設し検地によって得た余裕を別途に貯蓄せしめ、他への流用を禁じた。年を経て、その米銀は巨額に達し、後年、長州藩の幕末維新期に於ける活動の財源となった。さらに公は、防府に愛着し、この地こそ防長の殖産興業の中心となるべき処と着目、勝間開作、鶴浜、大浜、西浦浜などの良田、塩田を相次いで干拓し、天明二年(一七八二)隠居後は三田尻御茶屋に住み、一層積極的に防府の発展に尽くした。居ること八年、寛政元年(一七八九)同所に薨じた。
産業都市としての防府の基盤は、重就公によって確立されたのである。
              (臼杵華臣撰)

      毛利重就公顕正会
      防府ロータリークラブf:id:YBR125K:20201024173703j:plain

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【案内看板より】

春風楼

春風楼は十代藩主毛利斉熙(なりひろ)が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(一八二二)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始めの儀を行ったが資金調達中天保い二年(一八三一)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った
その後塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(一八七三)に完工した
この楼の床下の木組は文政年間着工当時の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので当時の面影を偲ぶに充分である
この楼上からの眺望は四季折々誠に絶景で春風楼の名にふさわしい

※経年劣化により判読しづらい数ヶ所ありf:id:YBR125K:20201024203822j:plain

春風楼よりの眺望f:id:YBR125K:20201024204106j:plain

壮麗な木彫り彫刻f:id:YBR125K:20201024204511j:plain

来春の初詣ポスターf:id:YBR125K:20201024204722j:plain

コロナに負けるな!

江戸時代の熊本県で突如現れ、
「病が流行するので私の姿を写して人々にみせるように
と言い残したとされる妖怪。
それを信じた人々はその姿を描き、疫病退散の護符として
家にお祀りした。f:id:YBR125K:20201024205330j:plain

運をつかみ鯛
福を招き鯛
福を叶え鯛
一年安鯛おみくじ 運だめし 

初穂料300円f:id:YBR125K:20201024205652j:plain

皆様の願いが込められた絵馬f:id:YBR125K:20201024211352j:plain

場所柄かコロナ退散より合格祈願が多いようだf:id:YBR125K:20201024211545j:plain

午後も2時を回りそろそろ腹が減ってきたf:id:YBR125K:20201024211831j:plain

参道を駐車場に向け引き返すf:id:YBR125K:20201024212217j:plain

防府天満宮 御神幸祭(裸坊祭り)
令和2年11月28日(土)
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