徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

程内の夫婦滝

内子町大瀬北程内(うちこちょうおおせきたほどうち)f:id:YBR125K:20190512114353j:plain

頭上を見上げると「ボケ封じ観音像」が見える。f:id:YBR125K:20190512114712j:plain

県道側から観音像に直接行ける道はなさそうなので、とりあえず夫婦滝を目指して歩いていくf:id:YBR125K:20190512115132j:plain

ゆるゆる回る水車の奥でからくり人形がぎこちなく動いているf:id:YBR125K:20190512130247j:plain

渓流に沿って進むと道が二手に分かれる。

ボケ封じ観音への道とおぼしき右手の石段を上るf:id:YBR125K:20190512130545j:plain

【碑文より】

夫婦滝公園整備の趣意書

 滝の瀬戸は風光明媚な所で、古くから夫婦滝として親しまれ程内老人会を中心に、ボケ封じ観音様を始め絡繰り人形などを作り、地域の憩いの場としていたが、この度地域をあげて、広場や周辺の整備を行った次第であります。  

平成十八年十月吉日 程内白寿会f:id:YBR125K:20190512130706j:plain

観音像のある高台から県道241号線を見下ろす。

道路に沿って控えめに流れているのは鵜川f:id:YBR125K:20190512130851j:plain

分岐まで引き返し滝へ向かう。

間伐したまま放置された杉の木をくぐりぬけさらに歩を進めるf:id:YBR125K:20190512132846j:plain

それなりに険しい道だがf:id:YBR125K:20190512133015j:plain

5~6分も歩けばだんだん薄暗くなってきて滝に到着するf:id:YBR125K:20190512133250j:plain

夫婦滝に到着。

赤い橋を挟んで左右に滝がみえるf:id:YBR125K:20190512133406j:plain

左右に流れ落ちる滝は双方似たような水量で、どちらが夫でどちらが婦なのかよくわからないが、こちら(左)の方が若干水量が多いような多くないような…f:id:YBR125K:20190512134249j:plain

こちらが右側の滝f:id:YBR125K:20190512134345j:plain

深山幽谷の趣のある熊ノ滝川の流れを見下ろす。

画面左上付近が夫婦滝へのアクセス道f:id:YBR125K:20190512134644j:plain

ボケ封じ観音の足元に咲いていた紫の花f:id:YBR125K:20190512134913j:plain

こちらは水車の近くに咲いていた花f:id:YBR125K:20190512135303j:plain

日も暮れかかってきたのでそろそろ帰りますf:id:YBR125K:20190512135500j:plain

 

GW終了

長かったGWの終了は国道周辺の喧騒をあっという間に消し去り、自宅付近のクルマの流れもようやく日常を取り戻した。

世間が落ち着いたのを確信すると、外出意欲が沸々と湧いてくる。


伊予市中山町の山中からの眺望。
昨夜から夜明け近くまで降り続いた雨が嘘のような快晴f:id:YBR125K:20190508213803j:plain

これから梅雨入りまでの束の間、今まで行ったことのないあちこちの脇道に入り込んでみようと思うf:id:YBR125K:20190508214049j:plain

 

休肝日

午後から雨の予報だったので、今日は外出をあきらめ自宅でだらだら過ごした。
今月初めから先週まで、近年まれに見るほどの花見三昧だったが、桜はこの雨で残らず散ってしまうことだろう。

今週末から始まるGW休暇中は、人混みと交通渋滞から逃れるため一貫して自宅待機を決め込む。

アマゾンプライムビデオの視聴と買い溜めた文庫本を読むことで日々を消化することになる。

 このところ、休肝日なく酒を飲んでいるせいか少し胃の調子が悪い。
今日は飲まずに早めに寝る

松山市北条辻の鹿島にて(その6)

「かしまーる」を出た後、渡し船の時間合わせのため鹿島港付近をぶらつく。

【説明パネルより】

 この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。

    ゆるぐとも
       よもやぬけじな要石
           鹿島の神のおわすかぎりはf:id:YBR125K:20190421211018j:plain

鹿島港に常駐する周遊船「はなへんろ」f:id:YBR125K:20190421211720j:plain

松山市出身 吉本興業友近さんによるアナウンス付きf:id:YBR125K:20190421211846j:plain

張り紙だらけの鹿島たま屋f:id:YBR125K:20190421212135j:plain

さらに進むと海に張り出した太田屋鹿島店の年季の入った建物がf:id:YBR125K:20190421212346j:plain

松の若葉とf:id:YBR125K:20190421212531j:plain

散りかけた桜の花f:id:YBR125K:20190421212610j:plain

店開きはもうまもなくだf:id:YBR125K:20190421212807j:plain

太田屋裏手の埠頭から対岸を眺めるf:id:YBR125K:20190421212947j:plain

太田屋の床下からf:id:YBR125K:20190421213215j:plain

もう一度鹿島神社の境内に行ってf:id:YBR125K:20190421213413j:plain

おそらく今年最期になるだろう桜に名残を惜しむf:id:YBR125K:20190421213527j:plain

f:id:YBR125K:20190421213950j:plain

そろそろf:id:YBR125K:20190421213652j:plain

出航時刻だf:id:YBR125K:20190421213751j:plain

昼間のボヤも無事に鎮火したらしいf:id:YBR125K:20190421214118j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その5)

松山市北条鹿島博物展示館「かしまーる」に入ってみる

【案内パネルより】

鹿島の歴史

■7世紀の中ごろ、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内海に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。

■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334~1338)に今岡四郎通任(いまおかしろうみちとう)によって、階段式連郭構造の鹿島城が築かれました。

天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。

■現在、城郭遺跡としては、島の東北にある二ノ段郭と高さ2~3m、長さ約50mの石垣を残すのみです。

■この島には、神功皇后仮宮(かりみや)の伝説をはじめ、その出征の物語を残す髪洗磯(かみあらいいそ)、山頂御野立の巖(おのだてのいわ)、また河野通有元寇への進発、壇ノ浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。f:id:YBR125K:20190420192543j:plain

鹿島城主、久留島(来島)通総と道康の肖像f:id:YBR125K:20190420194134j:plain

【案内パネルより】

北条・鹿島の歴史と文学

河野氏と善応寺(ぜんのうじ)

◆平安末期から中世にかけて北条・風早地区は、河野氏が治めていました。当時、その本拠地のあった河野郷土居は、地方政治の一大中心地になっていました。14世紀前半本拠地は松山の湯築城に移って行きましたが、土居の跡地の善応寺は現在もその面影を残しています。

 

産経ニュースより 松山の善応寺、築300年と判明 再建時の棟札見つかる 「河野」姓発祥の地

 

一茶と虚子

◆江戸時代を代表する俳諧師小林一茶は、二度、北条を訪れています。一度目に上難波の西明寺(現在の最明寺)を訪ねて通った道は、現在、風早・一茶の道として俳句愛好家に親しまれています。

◆松山出身の俳人高浜虚子は、幼時、北条・柳原に住んでいました。その後も帰省するたび、幼時を懐かしみながら沖に浮かぶ鹿島を眺めていたことが文章に残されています。

また、鹿島を訪れた際、「鹿の舌 秋草の上に 赤く動く」と詠んでいます。

 

鹿島の文学碑

◆文学が盛んだった北条風早地区の影響を受けて鹿島には多くの句碑・歌碑があり、文学愛好家が訪れています。

◆北条出身の作家・早坂暁(はやさかあきら)さんと親しかった俳優の渥美清さんは、鹿島をことのほか愛し何度か訪れています。早坂暁さんの書による渥美清さんの句碑が平成25年に建立されました。

 

昭和の鹿島はかなりの賑わいをみせていたf:id:YBR125K:20190420200342j:plain

今となっては跡形もないf:id:YBR125K:20190420200525j:plain

 5月3日は北条鹿島まつりf:id:YBR125K:20190420200049j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その4)

山頂の展望台めざして歩くf:id:YBR125K:20190419204142j:plain

鹿はここでは完全に隔離されているので、奈良公園のようにまとわりつかれたりいちいちご機嫌を窺う必要はないf:id:YBR125K:20190419205011j:plain

注意を要する植物6種f:id:YBR125K:20190419205220j:plain

シダ類が繁茂する濃い緑の中をf:id:YBR125K:20190419205746j:plain

心拍数を上げながら道標に従って登って行くとf:id:YBR125K:20190419210149j:plain

【案内看板より】

中世における伊予の国の覇者、河野氏の海域の古城跡であるが、最後の城主来島通総豊臣秀吉四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている。

現代の公園造成石垣の下部礎石は中世築城時代のものの様であるf:id:YBR125K:20190419210605j:plain

濃い緑の中に鮮やかなソメイヨシノの花f:id:YBR125K:20190419210831j:plain

山頂まであとわずかf:id:YBR125K:20190419210934j:plain

展望台が見えてきたが、別の場所でこれと全く同じデザインのものを見たことがあるようなないようなf:id:YBR125K:20190419211014j:plain

 この鉄塔は地デジの合同中継局なのかf:id:YBR125K:20190419212537j:plain

「愛媛朝日放送」を除くTV局のロゴが列記されているf:id:YBR125K:20190419212620j:plain

 展望台から松山市北条を望むf:id:YBR125K:20190419212911j:plain

夫婦岩を望むf:id:YBR125K:20190419213105j:plain

【説明パネルより】

御野立の巌

神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられるとこの巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。

 他に御野立の巌に立ち思いにふけったとの伝説や西海(朝鮮地方)を眺めたとの伝説がある。
f:id:YBR125K:20190419213641j:plain

 テキトウに山を下っていくとf:id:YBR125K:20190419214111j:plain

鹿島神社の裏手に出たf:id:YBR125K:20190419214241j:plain

松山市北条鹿島博物展示館

「かしまーる」f:id:YBR125K:20190419214542j:plain

見物無料なのでちょっと入ってみる

入口近くのプランターに植えられた濃いピンクの花f:id:YBR125K:20190419215017j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その3)

鹿島一の眺望が望める島の西側は落石、土砂の崩落の危険があるため通行止めになっているがf:id:YBR125K:20190418211840j:plain

先行するカップルの後につかず離れずついて行くf:id:YBR125K:20190418212030j:plain

台風時の漂流物に直撃されたらしくアルミ製の欄干はあちこち曲がっているf:id:YBR125K:20190418212435j:plain

海蝕洞の入り口にかかるコンクリートf:id:YBR125K:20190418212806j:plain

水晶ケ浜までに数箇所の海蝕洞を通過f:id:YBR125K:20190418213110j:plain

玉理(ぎょくり)・寒戸(かんど)島からなる夫婦岩が見えるf:id:YBR125K:20190418213443j:plain

石門と呼ばれていた場所が見えてきた

愛媛新聞ON LINEより鹿島の名勝地「石門」崩れる f:id:YBR125K:20190418213650j:plain

生々しい崩落の跡f:id:YBR125K:20190418213750j:plain

ネットの内側に土の塊がf:id:YBR125K:20190418213937j:plain

砂に描かれた先行者の落書きf:id:YBR125K:20190418214047j:plain

【碑文より】

鹿に聞け

 潮の秋する 

  そのことは

松根東洋城f:id:YBR125K:20190418214337j:plain

 【碑文より】

三由淡紅を賛う

氏は北条に生まれ十五歳にして村上齋月に師事す。常に鹿島を愛し、私財を投じて周遊道の整備架橋等を行、分月斗、虚子、東洋城、為山等、文人墨客を招聘し、鹿島の顕彰に勉む。大正六年、虚子鹿島に来遊の際洞を淡紅洞石橋を白石橋と名つけ以って氏の労をねぎらう。今この石橋を○にし碑を作り淡紅の美挙を永くここに止むf:id:YBR125K:20190418220544j:plain

 【句碑より】

 裏山に

  ひびく神鼓(しんこ)や

   青嵐(あおあらし)

      三由淡紅

次は展望台まで登ってみるf:id:YBR125K:20190419180749j:plain