徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

松山市北条辻の鹿島にて(その6)

「かしまーる」を出た後、渡し船の時間合わせのため鹿島港付近をぶらつく。

【説明パネルより】

 この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で押さえているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。

    ゆるぐとも
       よもやぬけじな要石
           鹿島の神のおわすかぎりはf:id:YBR125K:20190421211018j:plain

鹿島港に常駐する周遊船「はなへんろ」f:id:YBR125K:20190421211720j:plain

松山市出身 吉本興業友近さんによるアナウンス付きf:id:YBR125K:20190421211846j:plain

張り紙だらけの鹿島たま屋f:id:YBR125K:20190421212135j:plain

さらに進むと海に張り出した太田屋鹿島店の年季の入った建物がf:id:YBR125K:20190421212346j:plain

松の若葉とf:id:YBR125K:20190421212531j:plain

散りかけた桜の花f:id:YBR125K:20190421212610j:plain

店開きはもうまもなくだf:id:YBR125K:20190421212807j:plain

太田屋裏手の埠頭から対岸を眺めるf:id:YBR125K:20190421212947j:plain

太田屋の床下からf:id:YBR125K:20190421213215j:plain

もう一度鹿島神社の境内に行ってf:id:YBR125K:20190421213413j:plain

おそらく今年最期になるだろう桜に名残を惜しむf:id:YBR125K:20190421213527j:plain

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そろそろf:id:YBR125K:20190421213652j:plain

出航時刻だf:id:YBR125K:20190421213751j:plain

昼間のボヤも無事に鎮火したらしいf:id:YBR125K:20190421214118j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その5)

松山市北条鹿島博物展示館「かしまーる」に入ってみる

【案内パネルより】

鹿島の歴史

■7世紀の中ごろ、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内海に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。

■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334~1338)に今岡四郎通任(いまおかしろうみちとう)によって、階段式連郭構造の鹿島城が築かれました。

天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。

■現在、城郭遺跡としては、島の東北にある二ノ段郭と高さ2~3m、長さ約50mの石垣を残すのみです。

■この島には、神功皇后仮宮(かりみや)の伝説をはじめ、その出征の物語を残す髪洗磯(かみあらいいそ)、山頂御野立の巖(おのだてのいわ)、また河野通有元寇への進発、壇ノ浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。f:id:YBR125K:20190420192543j:plain

鹿島城主、久留島(来島)通総と道康の肖像f:id:YBR125K:20190420194134j:plain

【案内パネルより】

北条・鹿島の歴史と文学

河野氏と善応寺(ぜんのうじ)

◆平安末期から中世にかけて北条・風早地区は、河野氏が治めていました。当時、その本拠地のあった河野郷土居は、地方政治の一大中心地になっていました。14世紀前半本拠地は松山の湯築城に移って行きましたが、土居の跡地の善応寺は現在もその面影を残しています。

 

産経ニュースより 松山の善応寺、築300年と判明 再建時の棟札見つかる 「河野」姓発祥の地

 

一茶と虚子

◆江戸時代を代表する俳諧師小林一茶は、二度、北条を訪れています。一度目に上難波の西明寺(現在の最明寺)を訪ねて通った道は、現在、風早・一茶の道として俳句愛好家に親しまれています。

◆松山出身の俳人高浜虚子は、幼時、北条・柳原に住んでいました。その後も帰省するたび、幼時を懐かしみながら沖に浮かぶ鹿島を眺めていたことが文章に残されています。

また、鹿島を訪れた際、「鹿の舌 秋草の上に 赤く動く」と詠んでいます。

 

鹿島の文学碑

◆文学が盛んだった北条風早地区の影響を受けて鹿島には多くの句碑・歌碑があり、文学愛好家が訪れています。

◆北条出身の作家・早坂暁(はやさかあきら)さんと親しかった俳優の渥美清さんは、鹿島をことのほか愛し何度か訪れています。早坂暁さんの書による渥美清さんの句碑が平成25年に建立されました。

 

昭和の鹿島はかなりの賑わいをみせていたf:id:YBR125K:20190420200342j:plain

今となっては跡形もないf:id:YBR125K:20190420200525j:plain

 5月3日は北条鹿島まつりf:id:YBR125K:20190420200049j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その4)

山頂の展望台めざして歩くf:id:YBR125K:20190419204142j:plain

鹿はここでは完全に隔離されているので、奈良公園のようにまとわりつかれたりいちいちご機嫌を窺う必要はないf:id:YBR125K:20190419205011j:plain

注意を要する植物6種f:id:YBR125K:20190419205220j:plain

シダ類が繁茂する濃い緑の中をf:id:YBR125K:20190419205746j:plain

心拍数を上げながら道標に従って登って行くとf:id:YBR125K:20190419210149j:plain

【案内看板より】

中世における伊予の国の覇者、河野氏の海域の古城跡であるが、最後の城主来島通総豊臣秀吉四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている。

現代の公園造成石垣の下部礎石は中世築城時代のものの様であるf:id:YBR125K:20190419210605j:plain

濃い緑の中に鮮やかなソメイヨシノの花f:id:YBR125K:20190419210831j:plain

山頂まであとわずかf:id:YBR125K:20190419210934j:plain

展望台が見えてきたが、別の場所でこれと全く同じデザインのものを見たことがあるようなないようなf:id:YBR125K:20190419211014j:plain

 この鉄塔は地デジの合同中継局なのかf:id:YBR125K:20190419212537j:plain

「愛媛朝日放送」を除くTV局のロゴが列記されているf:id:YBR125K:20190419212620j:plain

 展望台から松山市北条を望むf:id:YBR125K:20190419212911j:plain

夫婦岩を望むf:id:YBR125K:20190419213105j:plain

【説明パネルより】

御野立の巌

神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられるとこの巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。

 他に御野立の巌に立ち思いにふけったとの伝説や西海(朝鮮地方)を眺めたとの伝説がある。
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 テキトウに山を下っていくとf:id:YBR125K:20190419214111j:plain

鹿島神社の裏手に出たf:id:YBR125K:20190419214241j:plain

松山市北条鹿島博物展示館

「かしまーる」f:id:YBR125K:20190419214542j:plain

見物無料なのでちょっと入ってみる

入口近くのプランターに植えられた濃いピンクの花f:id:YBR125K:20190419215017j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その3)

鹿島一の眺望が望める島の西側は落石、土砂の崩落の危険があるため通行止めになっているがf:id:YBR125K:20190418211840j:plain

先行するカップルの後につかず離れずついて行くf:id:YBR125K:20190418212030j:plain

台風時の漂流物に直撃されたらしくアルミ製の欄干はあちこち曲がっているf:id:YBR125K:20190418212435j:plain

海蝕洞の入り口にかかるコンクリートf:id:YBR125K:20190418212806j:plain

水晶ケ浜までに数箇所の海蝕洞を通過f:id:YBR125K:20190418213110j:plain

玉理(ぎょくり)・寒戸(かんど)島からなる夫婦岩が見えるf:id:YBR125K:20190418213443j:plain

石門と呼ばれていた場所が見えてきた

愛媛新聞ON LINEより鹿島の名勝地「石門」崩れる f:id:YBR125K:20190418213650j:plain

生々しい崩落の跡f:id:YBR125K:20190418213750j:plain

ネットの内側に土の塊がf:id:YBR125K:20190418213937j:plain

砂に描かれた先行者の落書きf:id:YBR125K:20190418214047j:plain

【碑文より】

鹿に聞け

 潮の秋する 

  そのことは

松根東洋城f:id:YBR125K:20190418214337j:plain

 【碑文より】

三由淡紅を賛う

氏は北条に生まれ十五歳にして村上齋月に師事す。常に鹿島を愛し、私財を投じて周遊道の整備架橋等を行、分月斗、虚子、東洋城、為山等、文人墨客を招聘し、鹿島の顕彰に勉む。大正六年、虚子鹿島に来遊の際洞を淡紅洞石橋を白石橋と名つけ以って氏の労をねぎらう。今この石橋を○にし碑を作り淡紅の美挙を永くここに止むf:id:YBR125K:20190418220544j:plain

 【句碑より】

 裏山に

  ひびく神鼓(しんこ)や

   青嵐(あおあらし)

      三由淡紅

次は展望台まで登ってみるf:id:YBR125K:20190419180749j:plain

 

松山市北条辻の鹿島にて(その2)

鹿島港に着くと港の周囲に集まった数人が対岸を見つめている。
複数の消防車のサイレンの音も聞こえてきた。
海を隔てた向こうの山を見るともうもうと煙が上がっている。

屋根の鹿も火事見物しているように見えるf:id:YBR125K:20190417210458j:plain

とは言うものの、文字通り対岸の火事ということでf:id:YBR125K:20190417225052j:plain

【案内看板より】

鹿島神社ご案内
KASHIMA SHRINE INFORMATION

鹿島神社
KASHIMA SHRINE

当社は武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主命(ふつぬしのかみ)をお祀りした神社で、神功皇后三韓征伐の途中、風早の浦、鹿島にとめて、戦勝と道中の安全を祈願して出陣したと伝えられている。その後、事代主神(事代主)をあわせて祀った。
 例祭日は四月十五日と十月十二日の二回あり、海上神輿渡御(しんよとぎょ)には往時を偲ぶ勇壮な櫂練り船が登場する。

櫂練り
KAINERI

櫂練りは治承年間(一一七七~一一八〇)河野水軍が、出陣に際し鹿島の神前に集まって、戦勝の祈願、或いは凱旋の時の祝勝行事を行なった。
このことが鹿島神社の神事となったと伝えられる。
 往時、河野水軍の出陣再現にも似て囃しの鐘や太鼓の響きも勇ましく、櫂練り船を先頭に伝馬船に乗り移った二隻の神輿(じんよ)が続き、お供船が大漁旗笹幡をなびかせて続く。
 櫂練り船の設備・装置・奉仕者の扮装、舸子(かこ)の漕法、樽上で剣櫂を操り舞う動作、ホーランエーの掛け声など絢爛たる海上絵巻がくりひろげられる。f:id:YBR125K:20190417212702j:plain

 鹿の形の俳句ポストf:id:YBR125K:20190417213643j:plain

島内のいたる所にある句碑f:id:YBR125K:20190417214148j:plain

 キャンプ場に併設された炊事棟f:id:YBR125K:20190417214835j:plain

 14組が同時に調理可能だが、満員状態で肩寄せあっての食事支度はなるべくなら遠慮したいf:id:YBR125K:20190417215154j:plain

これという目的があって島に渡ったわけではないがf:id:YBR125K:20190417215526j:plain

とりあえず島の周囲をf:id:YBR125K:20190417215717j:plain

ぶらぶら歩いてみることにするf:id:YBR125K:20190417220047j:plain

 

 

松山市北条辻の鹿島にて(その1)

松山市の北条港から渡船で約2分、直線距離で400mほどの沖合に鹿島があるf:id:YBR125K:20190416220008j:plain

距離が近いだけあって渡船料金は往復¥210だが、クルマで行くと¥510の駐車料金が必要。バイクは無料だったのでうれしいf:id:YBR125K:20190416220403j:plain

大鳥居のかたわらにある花壇は花盛りf:id:YBR125K:20190416220743j:plain

紫の花にf:id:YBR125K:20190416235559j:plain

黄色い花f:id:YBR125K:20190416235714j:plain

駐輪場の端っこにバイクを駐車f:id:YBR125K:20190416230402j:plain

 待合所の前には釣り客やキャンパーの荷物運搬用としてサイズの違うリヤカーがずらりと並んでいるf:id:YBR125K:20190416224652j:plain

 来島港と同様のメカニカルな浮き桟橋f:id:YBR125K:20190416230011j:plain

干潮時は急な坂道になりますのでf:id:YBR125K:20190416230200j:plain

屋根の上に鹿が乗った渡船がやってきたf:id:YBR125K:20190416230749j:plain

釣り客と思われる数名と共に乗船するなり出港

北条港がみるみる間に遠ざかるf:id:YBR125K:20190416231143j:plain

船旅気分を味わう間もなく鹿島に到着f:id:YBR125K:20190416231400j:plain

 

 

 

 

野村町小松地区へ(その3)

校庭跡には両脇に桜の木を従えるようにして背の高いコンクリート柱が立っているf:id:YBR125K:20190415172058j:plain

設置されているのはKDDIの西予野村小松北局

何かと話題のHUAWEI製ではなくERICSSON社製f:id:YBR125K:20190415172743j:plain

校庭の周囲に植えられた桜は今が最盛期f:id:YBR125K:20190415173008j:plain

見るものとてない校庭跡に咲き誇っているf:id:YBR125K:20190415173156j:plain

基地局脇の桜は若木でまだ細いf:id:YBR125K:20190415173549j:plain

西予市立惣川小学校 - 学校公式サイト

惣川小学校沿革史抄より抜粋

昭和16年4月1日
国民学校令施行にともない、惣川国民学校と改称し、惣川第二小学校は、舟戸国民学校と改称する。

昭和18年4月1日
上浮穴郡浮穴村大字小屋は、浮穴村より分離し惣川村に編入する。同時に浮穴国民学校小松分教場は、惣川村立小松国民学校として独立する。
昭和21年1月1日
小松分教場は、惣川村立小松国民学校として独立する。

昭和22年4月1日
学校教育法施行にともない、惣川村立惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校と改称する。

昭和30年2月11日
町村合併促進法に基づき、野村町と合併し、野村町立惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校と改称する。

昭和43年4月1日
惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校の3校を名目統合し、新たに惣川小学校とする。

昭和44年3月31日
惣川小学校、小松小学校、舟戸小学校の3校統合のため、3校舎廃校とする。校章・校歌・校旗・通学服を制定する。

昭和44年4月1日
統合校舎が新築落成し、新校舎において入学式を挙行する。

昭和47年3月31日
小中学校体育館が落成する。
巴 松五郎氏の胸像除幕式をする。

 

 巴松五郎翁頌徳碑の頭上にも満開の桜f:id:YBR125K:20190415173917j:plain

 頌徳碑と小松分館の建物f:id:YBR125K:20190415175051j:plain

そろそろ帰りますf:id:YBR125K:20190415183031j:plain