徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kが徘徊中

屋島神社

天気がいいので屋島辺りをぶらぶらf:id:YBR125K:20181123131207j:plain

【案内看板より】

異人館 

 この建物は、明治三十八年(一九〇五)、英国人ワサ・ダウン氏の住宅として、神戸市生野区北野町に建てられ、昭和十九年から日本郵船㈱の船員寮として改造、使用されていたものです。四国民家博物館建設にあたり、日本郵船の特別なご好意で寄贈され、神戸市教育委員会のご理解とご指導によって、最初の姿に復原移築されました。

ガス燈、羊飼像など

 当館の表にあるポストとガス燈は、ロンドン西南部のチェルシーにあったものです。

 夏目漱石は英国留学中、これらのあった街に住んでいたと伝えられています。

 また、羊飼像とガーデンテーブルチェアなどは十九世紀後半のもので、ハンプシャーマナーハウス(領主の館)で使われていました。

四国村入口にある異人館f:id:YBR125K:20181123131427j:plain

異人館前を通りすぎるとf:id:YBR125K:20181123132634j:plain

屋島神社の参道がf:id:YBR125K:20181123132801j:plain

ミニチュア水車のある手水場(ちょうずば)f:id:YBR125K:20181123133738j:plain

途中で振り返ると参道入口から一直線に県道150号へ続いているのが見えるf:id:YBR125K:20181123133339j:plain

【案内看板より】

讃岐東照宮 
  屋島神社

由緒

 当神社は慶安四年(一六五一年)初代高松藩松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。
 以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(一八〇四年)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化十二年(一八一五年)に完成した。その後、明治四年には冠嶽神社と改め、さらに明治七年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治十五年に藩祖松平頼重公を合祀する。昭和四十八年二月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍 下り龍の彫刻)は無事であった。社殿は翌年十一月に再建され現在に至っている。

◆御祭神/東照大神(徳川家康公)
     頼重大神(松平頼重公)

◆例祭日/四月十七日

 神門と屋島南嶺f:id:YBR125K:20181123140200j:plain

 おなじみ三つ葉葵の家紋f:id:YBR125K:20181123140831j:plain

頭上には精緻な細工の鳳凰f:id:YBR125K:20181123141113j:plain

神門の隙間から拝殿をのぞき見るf:id:YBR125K:20181123141433j:plain

【案内看板より】

屋島神社

 高松藩祖 松平頼重は、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家初代頼房の長男として生まれ、寛永十九年(一六四二)讃岐高松十二万石を拝領し、高松藩二百三十年の礎を築いた。
 頼重は、香川郡宮脇村の本門寿院(現西宝町)の境内に、祖父にあたる徳川家康公を東照大権現として祀り、これを崇敬した。この時の御真影は、家康公ゆかりの天海僧正が自筆画賛し、高松藩拝領に際して頼重に贈ったものとされ、今に伝わる。
 文化十二年(一八一五)家康公二百年忌にあたり、高松藩八代藩主頼儀(よりのり)は、屋島山南嶺麓の冠嶽(かんむりだけ)へ新たな御宮を造営し、御真影遷座した。以来、当地において、藩主、藩士の篤い崇敬を集め、数々の武器・武具なども奉納され、後に重要文化財に指定されたものもある。
 御宮と称されていた当社は、明治四年(一八七一)冠嶽神社となり、さらに明治七年(一八七四)屋島神社と改称し、県社に列せられた。明治十五年(一八八二)には、藩祖頼重を合祀し現在に至っている。

高松市教育委員会

侵入を強固に拒絶する意思がひしひし感じられる逆向きに並んだ鉄釘f:id:YBR125K:20181123142242j:plain

周囲ぐるりと囲んだ築塀の背面角付近から腕を目一杯伸ばして本殿と拝殿を撮影f:id:YBR125K:20181123142610j:plain

神社裏手に仕掛けられた捕獲ケージf:id:YBR125K:20181123144219j:plain

アクセスカウンター