徘徊する魂   Traveling Alone ! 

四国と周辺地方をYBR125Kと徘徊中

香山公園の毛利家墓所

【案内看板より】

史跡 萩藩主毛利家墓所

       昭和五六年五月十一日国指定

この墓所は、萩市に所在する旧天樹院・大照院・東光寺毛利家墓所とともに、長州藩主(毛利本家)の墓所である。
萩市に所在の墓所五輪塔・笠塔婆形であるのに比して、この墓所は土饅頭の前面に墓石を立てる形式である。
墓所には七基の墓があり、中央の十三代敬親公夫妻の墓は高さ約1.8メートル、経約5.8メートルの円形の墓で、前面に墓石があり「贈従一位大江朝臣敬親卿墓」と刻してある。
そのほか十四代元徳公夫妻、十五代元昭公夫妻及び毛利本家歴代諸霊之墓がある。山林を背にして広大な地に整然と配置され、その規模の大きいことと荘厳さといい近世墓所の代表的なものである。
ここの参道は歩くと音が反響するため、俗に「うぐいす張りの石畳」といわれている。f:id:YBR125K:20201102154900j:plain

 【案内看板より】
 香山墓地
この墓地は、萩藩主(毛利本家)の墓所で十三代敬親公が文久年間に居城を萩から山口に移して以降の墓地として使用するために造成されたものです。明治四年に敬親公が山口で没して、この地に葬られ、以降の墓地として使用されています。
 うぐいす張りの石畳
このあたりで、手を叩くか強く足踏みをすると、美しい音が返ってきます。「うぐいす張りの石畳」と呼ばれ親しまれています。人為的に造られたものではありませんが、前方の石垣や石段等に反響して美しい音色を出すものと思われます。

うぐいす張りの石畳を見下ろすf:id:YBR125K:20201102160025j:plain

 

これで山口県にある毛利家墓所のある場所はすべて制覇したことになるf:id:YBR125K:20201102160148j:plain

 

立入禁止区画が多いf:id:YBR125K:20201102160511j:plain

 

さて昼食をどうするか考えながら駐車場に向かって歩いていたが、まったく空腹を感じないのに気づき、このまま秋吉台に向かって出発するf:id:YBR125K:20201102161058j:plain

香山公園の大内弘世公之像

堂々たるサイズの大内弘世之像と五重塔f:id:YBR125K:20201101152128j:plain

【台座の碑文より】

大内弘世公は 中世西日本の守護大名として勢力をもっていた大内氏十四代の当主である。室町幕府重臣として 度々上京していたうち 京都の風情を好み 地形の似た山口盆地に 京都になぞらえて町造りをした。これが「西の京」といわれる山口の町の誕生である。
公はよく幕政を助け 領国を治め 文学を愛し 社寺の建立保護に努め まことに文武兼備の名将であった。康暦二年(一三八〇)に山口で没した。 
      昭和五十五年三月

      市政施行五十周年記念
      山口市長 堀 康夫f:id:YBR125K:20201101152331j:plain

大内弘世公之像の真裏にある「全国の五重塔展示館」

1/100サイズの縮小塔が55基展示されているらしいが、先を急ぐので失礼する。ちなみに拝観料?は¥300也f:id:YBR125K:20201101152724j:plain

 

瑠璃光寺の金比羅神社

コスモスの咲く石段を山に向かって上っていくf:id:YBR125K:20201030204437j:plain

【案内看板より】

金比羅神社由来

この金毘羅神社は、南北朝時代の貞治三年(一三六四)領主、大内一族が隆盛を誇る頃、讃岐の国、琴平山(香川県)にある金毘羅神社本宮の御分霊を勧請し、大内氏一族代々の鎮守の神として、祀ったのが始まりで、ご祭神は、大物主神崇徳天皇の二柱であります。

その頃は、神佛混淆(こんこう)の習俗があり、龍神や佛教守護の神、金毘羅大権現と称されていました。
大内氏は、代官の島民遥役や更に明国との交易が頻繁となり、航海の安全を特に願っていたようです。当寺は陶弘房の菩提寺であるが、文明三年(一四七ニ)その子弘護の時に金毘羅様が寄進されました。
宝永の頃、信者である山口の商人、岡本某氏が(屋号鍋屋)北越で海難にあい、梶を海底に失った時、この神に祈願した処、不思議な事に神風が吹き雲が晴れて海上は静まり、無事乗組員全員が港に帰る事が出来、民はそれを喜び、御礼に念願の社を再建されたものです。

金毘羅様は、(梵語クンピーラ=鰐魚)佛法の守護神の一つで、もとガンジス河に住む鰐が神格化されて、佛教に取り入られたもの、蛇形で尾に宝玉を蔵するという、水の中に住んでいるので、水難、海難を避けるということで航海安全、交通安全の神様として信仰されています。
薬師如来十二神将の一つとしては宮毘羅(くびら)大将または金毘羅童子にあたり、琴平(香川県)の金刀比羅宮に祀るのはこの神という。
当寺では、信者も多く毎年四月十日に大祭が行われています。f:id:YBR125K:20201030204644j:plain

やや小ぶりな金比羅神社まで上ってみると、さらに上に向って小道が続いている。

少し上ってみると毛糸の帽子を被った地蔵が道なりに並んでいたf:id:YBR125K:20201030205323j:plain

地蔵の型にコンクリートを流し込んで作ったようで、どの地蔵も同じ顔と同じ姿勢だf:id:YBR125K:20201030205505j:plain

この付近はまるで人気がないので、夕暮れ時などに訪れるとそれなりにスリルが楽しめるかも

首が取れている地蔵もちらほらf:id:YBR125K:20201030205659j:plain

まだまだこの先にも続いているようだが、公園内に見物したいものがあるのでこの辺りで引き返すf:id:YBR125K:20201030210055j:plain

取れた首が3つまとめて石の台座に接着されている。見た瞬間にキングギドラを連想したのは不謹慎過ぎるだろうf:id:YBR125K:20201030210632j:plain

 

地蔵の並ぶ山道から五重塔の方角を眺めてみる。

五重塔の手前は墓地が拡がり、昼間から異空間を楽しめるf:id:YBR125K:20201030210409j:plain

 金比羅神社が見える場所まで下りてきたf:id:YBR125K:20201030211139j:plain

瑠璃光寺の境内にも同じ地蔵が二体並んで祀られていたf:id:YBR125K:20201030211414j:plain

 

香山公園と瑠璃光寺その2

【案内看板より】

Yamaguchi View Spot No.01

国宝瑠璃光寺五重塔

ここ香山(こうざん)公園には、国宝の瑠璃光寺五重塔があります。その美しさは日本三名塔に数えられ、春の桜や初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色など、一年を通じて様々な姿を楽しむことができます。水面に映る逆さ五重塔や、毎日日没~数時間ライトアップされ、暗闇に浮かび上がる姿も幻想的です。f:id:YBR125K:20201029210450j:plain

【案内碑文より】

日本の歴史公園100選

香山公園

 この香山公園は、歴史的・文化的資源を適切に保存・活用しながら、公園として一体性のある整備がなされていることが評価され平成十八年十月、都市公園法施行五十周年を記念し、「日本の歴史公園百選」の一つに選定されたものです。

        山口市f:id:YBR125K:20201029211328j:plain

【案内看板より】

雪舟は応永二十七年(一四ニ〇)に備中の国に生まれた。長じて僧となり京都の相国寺に入って、禅学と共に画技を学んだ。

その後四十才前後に山口に来て天花の雲谷庵に居を定め、画筆に親しんだ。

応仁元年(一四六七)大内氏の遣明船にのって中国に渡り、絵の修行に励むと同時に中国の風物に接した。

文明元年(一四六九)日本に帰った雪舟は山口に居住していたが、その後漂泊の旅に出て、再び山口に戻ったのは文明十八年(一四八六)頃と思われ、雲谷庵をアトリエととして多くの傑作を残している。有名な国宝「四季山水図」もこの年に描いている。以後雪舟はあまり漂泊をすることもなく主として山口で製作を続けていたものと思われる。

雪舟の没年、場所については諸説があるが現在では永正三年(一五〇八)八十七才雲谷庵で没したというのが定説となっている。

雲谷庵は、この向の山裾に跡が残っている。

雪舟は朝な夕なそこから五重塔を眺め、山口の美しさを感じたことであろう。

五重塔に向かう道すがらに雪舟の胸像があるf:id:YBR125K:20201029213747j:plain

        

【案内看板より】

国宝 瑠璃光寺五重塔

明治三六年四月十五日 指定
所在地 山口市香山(こうざん)町

 この塔は、嘉吉(かきつ)二年(一四四ニ)に建立されたもので、室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに大内氏隆盛時の文化を示す遺構として意義深いものである。
 高さは三十一・ニメートルで檜皮葺独特の軽快さを見せており、軒の出は深くなっている。塔の身部は上層にゆくにつれて思い切って間をつめているので、塔の胴部が細く見えてすっきりした感じである。これに対して初重の丈が高く、柱が太く二重目には縁匂欄(えんこうらん)があるので安定感が強い。鎌倉時代から和様、禅宗様、大仏様建築様式が行われているが、この塔は、大体和様を主体としていて、わずか一部に禅宗様の手法が見られる。室町時代のものとしては、装飾の少ない雄建なものである。この塔は大内義弘の菩提をとむらうためその弟の盛見がこの地にあった香積寺(こうしゃくじ)の境内に建立したものであるが、江戸時代の初めに」香積寺は萩に移り、その跡に瑠璃光寺が移ってきた。その後、「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれ、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺と並ぶ、日本の三名塔のひとつにも数えられている。f:id:YBR125K:20201029220823j:plain

 

場所柄か、はたまた日柄のせいか見物客は熟年夫婦と高齢者が目立つ。
五重塔から「満月の庭」と名付けられた芝生の脇を瑠璃光寺に向かって歩いていく。

「保寧山」と大書された扁額のかかった中門をくぐるf:id:YBR125K:20201029222751j:plain

【案内碑文より】

経塚 (五重塔)

国宝瑠璃光寺五重塔は、創建五五〇年(一九九ニ年)に当たり、これを記念して石造五重塔を建立す

永年にわたり維持保存に関与された諸先賢の霊を供養し 檀信徒並びに参詣者各位の先祖供養 家門繁栄 子孫長久を祈願して般若心経を書写し埋経す

平成四年十一月吉日

  曹洞宗 保寧山 瑠璃光寺 四十七世代

中門をくぐるとすぐ右手に石の五重塔があるf:id:YBR125K:20201029225418j:plain

f:id:YBR125K:20201029225925j:plain

 

本堂へ続く石段の右手に閻魔大王と後生車f:id:YBR125K:20201029223418j:plain

【案内看板より】

見切り地蔵の由来(身代わり地蔵)

此の地蔵様は三百余年の昔よりすべての悪い因縁・病気・縁談・不幸等に見切りを付けたいと願う人々のために身代わりとなって下さる霊験あらたかな地蔵様であります。

御覧のように身体を二ヶ所横に切ってお救い下さるので見切り地蔵と申して居ります。

左手にある見切り地蔵f:id:YBR125K:20201029224208j:plain

確かに胴体が横に二ヶ所切れて(割れて?)いるf:id:YBR125K:20201029224341j:plain

 

【案内看板より】

 知足の手水鉢

 手水鉢の字と真中の口とを結んで字を考えて下さい。
我唯足知(われただたるをしる)となります。意味はお解りと思いますが、現実に感謝し不平不満を云わず、より前進を誓う言葉ではないでしょうか。
 この言葉は、お釈迦様が涅槃に入られる前、最後の説法「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」の中に言われた言葉で、この手水鉢は禅宗の寺にはよく使われています。
 特に石庭で有名な京都の龍安寺に置かれている手水鉢は水戸光圀公が寄進されたものです。
 このつくばい手水鉢は表千家型の配置です。f:id:YBR125K:20201030174927j:plain

柄杓に隠れて五の字が見えないf:id:YBR125K:20201030173307j:plain

本尊の薬師如来と参拝者f:id:YBR125K:20201029231741j:plain

 本堂前から参道を見下ろすf:id:YBR125K:20201030173716j:plain

出雲一畑薬師奥之院山口分院f:id:YBR125K:20201030173954j:plain

曹洞宗の開祖、承陽大師(じょうようだいし)が祀られているf:id:YBR125K:20201030174704j:plain

 

五重塔おせんべいf:id:YBR125K:20201030174136j:plain

 画像がイマイチだが、この屋根付き通路を通って金毘羅神社に向かうf:id:YBR125K:20201030202621j:plain

 

香山公園と瑠璃光寺その1

14日は朝9時前に起床。


ここ最近、ホテル予約時にモーニングバイキング付きのプランなどを選択すると年甲斐もなく食べ過ぎて胃がもたれることが多く、結果体調不良でその後の日程をオシャカにすることが多い反省から、コーヒーを飲んだだけで出発準備する。

うれしいことに今日も雨の気配は全くないf:id:YBR125K:20201028215134j:plain

午前10時前にロビーに降りてバイクに向かう。

どうやらこのホテルは自民党山口県連御用達であるらしいf:id:YBR125K:20201028215214j:plain

ホテルからほんの10分ほどで香山公園駐車場に到着f:id:YBR125K:20201028215608j:plain

 昭和の匂いの佇まいがうれしいf:id:YBR125K:20201028220020j:plain

 

井上公園にて

ホテル10階の自室で一息つき、荷物を片付けつつ窓から見下ろすと部屋の直下に大きな石碑が見えた。夕食前の散歩がてら、日のあるうちに公園に行ってみることにした

比較対象物が付近にないのでサイズがわかりにくいが結構な大きさだ。井上公園はホテルニュータナカの真裏に位置するf:id:YBR125K:20201027210858j:plain

【案内看板より】

七卿遺蹟之碑 意訳

 元帥陸軍大将大勲位功ニ級載仁親王篆額(てんがく)
嘉永安政の時期、外国との関係も事多く、国論もまだ定まらない中、徳川幕府天皇の許しを待たずに欧米諸国との条約を結び、国内は騒然となった。この時にあたり、祖父の敬神は尊皇攘夷の説を大いに唱え、公卿の多くはその事に賛成し、三條中納言等七卿が主となり、遂に大和行幸のお告げがあった。しかし既に朝廷の会議は俄に変わり、七卿が朝廷に参上することを停止し、長州藩の官門警備を免じた。それが、文久三年八月十八日であった。七卿は、中納言三條、中納言西季知、左近衛少将東久世通禧修理大夫任生基修、侍従四條隆謌、右馬頭錦小路頼徳、主水正澤宣嘉であった。七卿は長州藩とともに皆愕然とし出る所を知らず、鷹司関白邸に到着して、朝廷の会議の真意を問うても要領を得ないので、退いて妙法院に入った。みんなが言うには、ここにいて思わぬ禍があると後日の計画に奔(はし)ることが出来ないと、七卿はそこではじめて決意し、長州藩に身を投じた。防府に来て、のち山口に移った。又、長府に移り、慶応元年の正月、さらに筑前におもむいた。長州藩にとどまること、およそ一年半。この間、澤卿が去り、錦小路卿が逝った。五卿は忠義を尽くすことの思いがいよいよ深く、憂国の思いは時に言葉や文章にあふれた。そこにおいて藩をあげたますます奮起し、天下饗応し、遂に中興の気運を開き、維新の功績を助けた。偉大であるというべきか。このごろ、防長の有志が諮り、湯田の高田殿跡地北隣の地をトし(ぼくし)、碑を建てその遺蹟を傳(つた)えることになった。思うに、七卿遺蹟は防長各地に散在するが、高田殿は三條卿のために修築し、その寓居にあて、他の諸卿はまた常に集まってここで国事を議論した。すなわち、遺蹟の中でも最も傳えるに足りるものであろうか。有志は私に碑文を頼み、私は祖父が七卿と同じに国事に尽瘁(じんすい)したことで、断ることは出来ず、すなわちその概要を記して與(あた)えるものである。


     大正十四年一

正二位勲二等 公爵 毛利元昭 撰文        

従二位勲一等 男爵 野村素介 書

 

井上肇 1835-1915f:id:YBR125K:20201027211717j:plain

銅像脇の碑文より】

井上肇

天保六年(一八三五)十一月、萩藩士井上五郎三郎の次男としてこの地で生まれました。俊才を認められ藩公の小姓役となり、幕末国事多難の折、同士らと共に国事に奔走、大義を唱えました。伊藤博文らと共に英国に留学し、帰国後藩論沸騰の際に当り、市内中讃井で反対派の壮士数名に斬り付けられ瀕死の重傷を負いましたが、名医都太郎の手当によりあやうく一命をとりとめました。やがて藩内で正義派が大勢を占めるようになり四境戦争、鳥羽伏見の役に出陣するなど、明治維新の大業推進に貢献しました。
 明治維新後は新政府に仕え大阪造幣局を創立、ついで民部大輔、大蔵大輔となり廃藩置県を成し遂げました。明治十八年内閣制度が成立、はじめての外務大臣となり、その後、農商務、内務、大蔵大臣などを歴任。後、実業界に転じて大いに力を尽くしました。
 晩年は元老として政財界に重要な地位を占め、明治四十年(一九○七)功により侯爵となり、大正四年(一九一五)興津で没しました。

 

【碑文より】

 所都太郎は天保九年、美濃国赤坂に生まれた。
長じて京都に出 医学を学び さらに大阪の適塾で西洋医学 洋学を修め 学・術ともに精進した 京都で医院を開いたが 長州藩の京都邸の近くであったので 藩の邸内医員を委嘱された 尊皇の志が篤く 長州藩士と深く交って時勢を通観し 医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来住した 下関の攘夷戦にも参加し 七卿西下に降してはその医員を命ぜられた
 元治元年九月 井上肇の袖解橋の遭難には ただちに駆けつけ 数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし 瀕死の井上を奇跡的に救った 後年の井上の業績を思うとき この所の治療を忘れてはならない
 慶応元年正月 高杉晋作が兵を挙げ 藩の俗論党と戦った時 所は迎えられて遊撃隊の参謀となり 高杉に協力した 
 その後幕府の長州征伐に備えて 軍を進めようとして時 にわかに病んで 吉敷の陣中で没した 二十七歳であった 
 明治になり特旨をもって従四位を贈られた

 (大垣市赤坂町本陣公園内の銅像を元に彫刻)f:id:YBR125K:20201027212005j:plain

 

公園内には足湯がある。靴下を脱いで湯に足を浸けながら先客のおばさんとしばし談笑。話によれば毎日来ているらしい。ほんの少し熱めの湯は気持ちがいいf:id:YBR125K:20201027212823j:plain

今まで萩や下関は何度も訪れたことがあるが山口市は素通りばかりだった。

着いたばかりだがこの街が好きになった。

 

日も暮れかけてきた。さてどこで飲もうかf:id:YBR125K:20201027234740j:plain

 

 

湯田温泉にて

午後4時過ぎに連泊予約した湯田温泉の「ホテルニュータナカ」に到着f:id:YBR125K:20201026220154j:plain

県道を挟んで向かい側に位置するホテル「かめ福」は耐震基準に適合するため、来年秋のオープンを目指し取り壊し&建て替え工事中で、本来この位置からは見えない「ビジネスホテル喜良久(きらく)」が正面に見えるf:id:YBR125K:20201026221424j:plain

今回は2泊共素泊まりで予約したので食事は宿泊場所周辺に数多い居酒屋で済ませることにしている。

ホテルの真裏に井上公園なるものがあるようなので、夕食前に散歩がてら歩いて行ってみることにするf:id:YBR125K:20201026221713j:plain